2020年1月に読んだ本

 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

  • 作者:松村圭一郎
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2017/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

個人的な感情や関係性が、市場・社会・国家といった大きなものとつながっていることをしめし、世界の公平に向けて私たちに何ができるのかを、ゆっくり優しく語られていく。

 

 たぶん、世界を根底から変えることはできない。まったくあたらしい手段をみつけて、すべてをつくりかえることはできない。おそらくそれはよりよい方向に近づく道でもない。

 ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせいている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること(p182)

 

今私の目の前にふっと現れた「あたりまえ」をずらしてゆく他者に対し、「うしろめたさ」を感じることから始まる「贈与」という実践的倫理の機会に開かれてありたい、そう思わされる。

 

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

 

 

2019年12月に読んだ本

 

森のバロック (講談社学術文庫)

森のバロック (講談社学術文庫)

 

 

人間の感性的な領域を「心界」、事物のみの領域を「物界」とすると、「事」はその二つの領域の出会いによって生じる。

そして「事」は「物」と違って、「対象化不可能なダイナミックな運動」(p76)であり、量子論における「観測問題」の様相を呈している。

つまり、どんな物質現象でも、それが人間にとって意味をもつときには、すでに「物」ではなく、「心界」と「物界」の境界面におこる「事」として現象しているために、決定不能の事態に陥ってしまうのだ。量子論は、パラドックスにみちた「事」の世界を記述するための方法を、いまだに探求しつづけている。熊楠は量子論が生まれる三十年も前に、「事」としてつくりだされる世界の姿をとらえ、それをあきらかにするための方法を、模索しだしていた(p77)

ーーーーーーーーーー

 

古代社会の「人柱」・「人身御供」といった習俗を「神話的フィクション」とする柳田国男に対して、南方熊楠はそういう「本源的暴力」は実際行われていたのであり、私たちの社会はそのような暴力的起源を持っていると、ある意味素朴に考えていた。

柳田国男レヴィ=ストロースのように、これを、不安定ながらもすでに自然(水の神)にたいして主権を確立している社会の側から説明するならば、そのとき「象徴学の主体」は、社会実体の観念の内側にいる。これにたいして、熊楠のようにそれを、その「事件」にきっかけにして、社会なるものが創出されることになった、重大な転換点をなすひとつの「リアル」なのだ、ととらえると、そう考える「象徴学の主体」は、カオスとプロセスの側に身を置くことになる。このカオスの中から、プロセスとして、社会はつくりだされてくるのである(p234,235)

 

民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始原の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始原の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始原学をめざしていた(p235)

 

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

 

 

 

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

  • 作者:小川 さやか
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/07/14
  • メディア: 新書
 

 

インフォーマル経済を体現するタンザニアの零細商人たちは、先進国における新自由主義的な「経済合理性」、分業や規模の経済性といった「合理的」手段を追求しない。彼らは自身のコネクション(友人・知人・親類)をツテに個人単位で商売を行い、共に情報や資金を融通し合い、商機に殺到したと思ったらまた別の業種に散り散りとなってゆく。

彼らの信頼とは大胆な言い方をすれば、その時々の交渉により発言する「誰も信頼しないことによる、誰にでも開かれた信頼」であり、どちらかと言えば、「反コミュニティ的」なものである(p115)


彼らが常に選び取る・規範とする姿勢は、決して一点集中による効率化ではなく、自律分散的に行動することで個々人のリスクと利益を適度に分配することである。
そして、「法的な違法性 illegal」と「道義的な違法性 illicit/合法性 licit」(p128)という区分をそのインフォーマル経済圏に当てはめれば、「法的」かどうかよりも「道義的」かどうかが重視される。

わたしは、下からのグローバル化の興味ぶかい点は、上からのグローバル化との関係をめぐる論点だけでなく、下からのグローバル化を構成する人びとのあいだにある文化的な多様性や経済的な力の不均衡が、いかに折衝されながら、アナーキーでありつつも「法的には違反しているが道義的には許せる」第三の空間を創出していくかにあると考えている(p167,168)

 

 

 新自由主義が隅々まで浸透することで起こる、交換可能性領域の際限のない拡大。それにより引き起こされるあらゆるひと・もの・ことへの数量化と数値化からの貨幣換算。西洋近代に生み出された法秩序や法規範内でのそのような展開は、その中で生きる人々の実存/承認欲求を絶えず不安に晒し続けている。

インフォーマルな経済を行うタンザニアの零細個人商たちは、新自由主義が生み出した大量の商品とテクノロジーを享受しつつも、それらを生産した主流派経済学と歩を同じくすることなく、むしろ新自由主義が無駄として切り捨ててきた数量化できない人間性の諸部分を、その経済の根幹に据えている。

加速する現代経済への、「対抗馬を考えなければいけない」という理由のみでよく急造されるスローな経済・スローな〇〇といった単純な言説にはない、正しく文化人類学的で、かつ人類史的深みを携えた経済のかたちの一例が本書には示されている。

 

 

 

 

 

『「差別はいけない」とみんないうけれど。』メモ

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

まえがき


・本来、反差別的行動は被差別者によるアイデンティティ・ポリティクスとして存在していた

・近年は被差別者の周囲にいる人たち(≒マジョリティ or エスタブリッシュメント)による反差別的行動や言説が活発化している

・「アイディンティティ」から「シチズンシップ」への転換 

  アイディンティティ・ポリティクス: 差別者と被差別者に分ける
 →意図的に差別をしていない人も、マジョリティであるがゆえに「差別者」になる可能性がある

 シチズンシップの論理: 自己が「差別者」である可能性を吟味せずに「非当事者を ふくめたみんなが差別を批判できる状況をつくった」(p16)

 →誰もが「市民」になることができ、

「市民」であれば、だれもが差別を批判できる。これがシチズンシップの論理である(p14)

 

カール・シュミットを援用すると、アイデンティティは民主主義、シチズンシップは自由主義という特徴を持つ。

 民主主義:(権力者から)平等に扱われる
 →同一性、同質性、集団性

 自由主義:(権力者から)自由に行動できる
 →言論の自由三権分立、主体性を持った市民、個人

 

・移民排斥運動や特定の人種・出自に向けられる排外主義は、「実はアイディンティティ・ポリティクスをおこなっている」。(p22)
→マイノリティこそがマジョリティを差別している、としばしば主張される

EU(自由主義) vs 加盟国(民主主義)(p22〜24)
→緊縮財政(EUによる自由主義経済) vs 反緊縮運動(加盟国による経済的格差の是正)
→難民受け入れ(EUによる人権思想) vs 排外主義的ポピュリズム政党の躍進(加盟国 による、難民を受け入れることで民主主義の「同質性」が「毀損」されることに 対する危機感の表面化)

 


第五章 合理的な差別と統治功利主義

 

しかし、繰り返すが、問題は、差別はいけないという考えが一般化し、マイノリティが被ってきたさまざまな不利益が解消され、マジョリティと同じ「尊厳」を持つ「市民」として扱われるにつれて、生物学的な特性に基づく議論が影響力を拡大してきた、ということである(p229)


 差別を被ってきたマイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスによって(途上であるとはいえ)「さまざまな不利益が解消され」てきた現代において、過去にその「不利益」の源泉であった前近代的差別意識が、「根拠に基づいた」科学的な差別へと形態を変えて表出しつつある。この形態変化は、根拠の有無による何か別様な変化に見えて実は、〈意味がある無意味〉の周りをただ周っているだけなのではないだろうか。

 

意味がない無意味

意味がない無意味

 

 『意味がない無意味』(河出書房新社)において千葉は、 際限なく意味を汲み出すことができる無限に多様な現実世界の事物は、過剰なまでに意味がある〈意味のある無意味〉だと表現している。「無限に意味が過剰なもの」「無限に多義的なもの」で溢れかえっている現実世界は、「意味がわからない状態なので、要は、無意味なのである」(p11)。そして、「今日の相対主義批判者[≒反ポリコレを掲げるマジョリティ]は、科学的なエビデンスにもとづき、世界について絶対的言明を言おうとする」と指摘している(p31)。 

 

相対主義は、思考不可能な実在=〈意味がある無意味〉=xを拠り所にして作動している。〜立場次第でxをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への「狂った」ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化するのだった(p31)

 

 現代においては進化心理学的に「合理的」であるとされる、前近代の信仰的な差別意識は、人権思想や啓蒙主義によって批判され、マイノリティの「不利益が解消され」てきた。しかし、差別を解消してきたはずの「科学的なエビデンス」を、「差別が解消された現状」に新たな科学的知見とともに適用することで、「差別が解消された現状」こそが科学的根拠に基づいた有りうべき世界を歪めている差別的状況である、というマジョリティからマイノリティに対する新たな「差別」の手段を生み出しているのである(=マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクス)。

 

〈意味がある無意味〉の周りで反復される差別は、別様に見えて、同じ構造のもと駆動している。その外部として千葉が提案するのが〈意味がない無意味〉である。その概念を「差別」の現実に落とし込むとすれば、いったいどのような言葉になるだろうか。

 

ーーーーーーーーーー

 

スケープゴートとは、ある集団が、集団全体の罪を特定のひとびとに背負わせ、排除することで、その集団の「同質性」(「私たちには罪はない、穢れがない」)を高める儀式である。差別者を犠牲の山羊[スケープゴート]として「炎上」させるのは、差別者という「異質性」を排除することによって、「私たちは差別者ではない、差別を許さない市民である」という「同質性」を相互に再確認し、「市民」としての結束を高めるためではないだろうか。つまり、それは、あまりに抽象的であるため「空虚」としか感じられない「市民」という理念に、アイデンティティの「同質性」をなんとかして与えようとする儀式なのである(p231)

 

 つけ加えるとすれば、「同質性」の濃度を高めるため「異質性」の濃度を薄めようとして排除が行われ、かつ、濃度の増加・減少は漸近的な変化として認識されるため、原理的にその活動には終わりがない、ということが言えるだろう。独裁的な政治体制や極端なイデオロギーによる統治の下で行われる、「あいつは裏切り者だ」という権力者への人々の密告が、実際に「裏切り者」であるかどうかの確固たる証拠を必要とすることなく「裏切り者」への制裁の根拠となってしまう状況は、その終わりのなさを最悪の形で表してしているのではないだろうか。

2019年11月に読んだ本

 

 

物質と記憶 (岩波文庫)

物質と記憶 (岩波文庫)

 

 

 

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

 

2019年10月に読んだ本

 

 

 

東方的 (講談社学術文庫)

東方的 (講談社学術文庫)

 

 

 

文化人類学の思考法

文化人類学の思考法

 

 

 

 

 

 

エネアデス(抄)〈1〉 (中公クラシックス)

エネアデス(抄)〈1〉 (中公クラシックス)

 

 

 

エネアデス(抄)〈2〉 (中公クラシックス)

エネアデス(抄)〈2〉 (中公クラシックス)

 

 

 

アウグスティヌス―その時代と思想 (1969年) (筑摩叢書)

アウグスティヌス―その時代と思想 (1969年) (筑摩叢書)

 

 

 

 

 

2019年9月に読んだ本

 

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書)

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書)

 

 

・西欧社会における、国家によって定められた実定法に対立する概念としての自然法が、国家よりも上位であるとするのが、カリフ制における法の支配である。

だから自然法に反するような国家法はすべて否定する。西欧で言うところの自然法イスラーム法と言われるものにいちばん近い。ですから、ほぼイコールで自然法の支配がカリフ制だというふうに言えます(p183)

 

・「そもそも、人間が人間を支配するというのは不正」とするイスラームの世界観では、「たくさんの支配者が出てこないようにする」ことが望ましい。カリフの存在意義を突き詰めて言えば、「法がひとつ」であること、「ダール・アル=イスラームもひとつであるということの象徴」であるに過ぎない。(p190)

カリフ制というのは要するに、カリフ的な無数の人格が出てくるのを封じるための権力乱立の制御装置です。だからカリフは一人と定められている(p191)

 

 

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 

 

 

 

アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)

アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)

 

  

アウグスティヌス <私>のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)

アウグスティヌス <私>のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)

 

 

アウグスティヌス『告白』―“わたし”を語ること… (書物誕生―あたらしい古典入門)
 

 

 

 

 

 

2019年8月に読んだ本

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 

ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く(p16)

 

自分の頭のなかにあるものと、外にあるものの境界はシームレスでなければならない。私たちの知性は必然的に、自らの脳に入っている情報と、外部環境に存在する情報とを連続体として扱うような設計になっている。人間はときとして自分がどれだけモノを知らないかを過小評価するが、それでも全体として驚くほどうまくやっている。それができるのは進化プロセスのもたらした最高の結果の一つと言える(p24)

 

知的であるというのは要するに、五感から入ってくる膨大なデータから本質的で抽象的な情報を抽出する能力があるということだ。高度な大きい脳を持つ動物は、単に周囲の光、音、においに反応するのではなく、知覚した世界の本質的かつ抽象的属性に反応する。そのおかげで新たな状況できわめて微妙かつ複雑な共通点や差異に気づくことができ、経験したことのないような場面でも適切な行動をとることができる(p58)

 

なぜ私たちは反事実的思考をするのか。なぜこれほど自然に反事実的世界について推論し、物語をつむぐのか。おそらくその主な理由は、別の行動シナリオを検討するためだ。〜中略〜新しい髪型を思いつけない者は、美容院に行って斬新な髪型にしてもらうことはできない〜。新たな権利に関する法案、あるいは新しい掃除機を思い描くことができない者も、それを手に入れることはできないだろう。反事実的思考をする能力は、特別な行動と当たり前の行動のどちらも可能にする(p78)

 

熟慮はあなたを他者と結びつける。集団は一緒に直感を生み出すことはできないが、ともに熟慮することはできる。〜コミュニティとともに熟慮することで、直観的因果モデルに内在する弱点や誤りを克服できることを見ていく。そうすることで、私たちは非常に強力な社会的知性を醸成することができる(p94,95)

 

ここから学ぶべき主な教訓は、知性を脳の中でひたすら抽象的計算に従事する情報処理装置と見るべきではない、ということだ。脳と身体、そして外部環境は強調しながら記憶し、推論し、意思決定を下すのだ。〜中略〜言葉を換えれば、知性は脳の中にあるのではない。むしろ脳が知性の一部なのだ。知性は情報を処理するために、脳も使えば他のものも使う(p121)

 

知性は、個人がたった一人で問題の解決に取り組むという環境のなかで進化してきたのではない。集団的協業という背景の下で進化してきたのであり、私たちの思考は他者のそれと相互にかかわりながら、相互依存的に進化してきたのだ(p126)

 

・人々が持つ「科学に対する意識」や心情は、「他の信念や共有された文化的価値観、アイデンティティ」と強く結びついている。そのため、文化やアイデンティティと一致しない科学や信念を選ぶことは「コミュニティと決別すること、信頼する者や愛する者に背くこと」、そして「自らのアイデンティティを揺るがすことに等しい」のである。(p176)

 

こうした視点に立てば、遺伝子組み換え技術やワクチン、進化論、あるいは地球温暖化について 〜中略〜 文化がわれわれに及ぼす影響力は、啓蒙の努力によって覆せるものではない(p176)

 

 

 

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-

あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-

 

 

第1章 精神衛生の体制の精神史ー一九六九年をめぐって

 

・1965年の精神衛生法改正は、「現在にいたる精神衛生体制の枠組み」の基盤となっており(p29)、その改正過程の審議においては、

国家が責を負うのは、犯罪傾向のあると目される精神障害者の収容・治療・指導だけであって、精神疾患一般の収容・治療・指導ではない。ところが、精神衛生審議会の側は、社会防衛を梃子にして医療化の拡大を狙っている(p33)

 

一方で国家は社会防衛の観点からしても精神医療の拡大に対して謙抑的であり、他方で精神医学界は社会防衛の名目の下で精神医療の拡大に邁進するという構図こそが、それ以後の歴史を動かしていくのである(p33)

 

 

・「精神・心理系の学会の歴史において画期をなし」たと言われる1969年、「金沢学会」とも呼ばれる第六十六回日本精神神経学会での討論では、「精神科医療」の「荒廃」が議論の基調をなしていた。(p41)

 

「社会防衛」や「労働不能と見なされる精神病者をして労働可能な者にする」という目的を果たそうとする政府や独占資本に対し、精神科医は「「本来」の治療的側面」を、「本当の精神医療を強化し精神病者を治療しなければならない」という面を打ち出そうとする。(p43)

 

しかし、その治療の目指す先が、入院患者が「病院外で暮らしていける者」となり、「社会生活を送れる者」になり、「労働不能」な者が「労働可能」な者に、「治療」されることであるならば、それは政府や独占資本の目的に接近し、「社会保安的な役割を果たすことになってしまう」(p43)。

「本当」の医療化は「本当」に成功するなら、政府と独占資本と社会保安に貢献するのである。とするなら「本当」の医療化の要求は、「本当」は政府と独占資本も認めて然るべきであるという語り方へも傾いていく。そして、現実にも、精神衛生法改正の〈精神〉からしてそれは体制的に認められていく。(p43)

 

政府や独占資本が推し進める「偽の精神医療」や「社会復帰・治癒」と、精神科医が提唱しようとする「真の精神医療」や「「本当」の社会復帰・治癒」は果たして区別し得るのだろうか。そもそもこのような「袋小路めいたものを生み出す議論のその前提は正しいの」だろうか?(p43)

 

 

・「精神病院数のピークは、社会防衛体制が批判され学会が改革され人権擁護が進められたはずの一九九〇年代初頭に」やって来る(p54)

ここまでの検討から少なくとも言いうることは、戦後復興期の病院化と施設化を新たな段階へ押し上げる〈精神〉をもたらしたのは、一九六九年の学会改革であるということである。そして、その〈精神〉は、「反」や「脱」であったどころか、まさに精神衛生体制の枠内のものであった(p55)

 

 

 中世哲学関連

 

アウグスティヌス (Century Books―人と思想)

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アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

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