2019年7月に読んだ本

 

 

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体 (ブルーバックス)

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体 (ブルーバックス)

 

 日本列島を文字通り東西に分断しているフォッサマグナ。世界でも類を見ないこの構造帯はどのように生成したのか。列島及び周辺海域の地質学的特徴を概説しつつ、その謎に迫る。

 

働きたくないイタチと言葉がわかるロボット  人工知能から考える「人と言葉」

働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」

 

 可能な限り「働きたくない」イタチたちが、自分たちが楽な生活をおくる目的で人工知能の開発に挑むストーリー。その過程で、人工知能が言語を理解/処理するとはどういうことか、そもそも言語の構造はどうなっているのか、といった古くて新しい疑問にぶつかりながら試行錯誤してゆく。各キャラクターのコミカルさが秀逸なのでぜひ小学校に1冊は常備しておいてほしい、そんな本。

 

 

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

 

 選択の限界

・「無数の投票形式を「社会的選択関数」によって一般化し、合理的な個人選好と民主的な社会的決定方式を厳密に定義してモデル化」した(p67)

→その結果、「完全に公平な投票方法は存在」せず、「そのような投票方式に依存する完全民主主義も、存在しない」ことが判明した(p73)

→アロウの不可能生定理

 

科学の限界

・ミクロの世界において、電子などの粒子を観測することは、観測する行為が粒子自身に影響を与えてしまう

不確定性原理は、電子の位置と運動量は、本来的に決まっているものではなく、様々な状態が「共存」して、どの状態を観測することになるのかは決定されていないことを表している(p141)

 →ハイゼンベルク不確定性原理

 

知識の限界

・「数学の世界においては「真理」と「証明」が完全には一致しない」ことを証明した(p226)→ゲーデル不完全性定理

 

 

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

 

 言語の限界

・言葉が指し示しているものを特定しようとしても、「私たちは言語を用いて答え続けるしか方法が」ないため、未知の言語で指し示しているなにかを、自らの言語と照らし合わせながら試行錯誤し続けるしか方法がない(p83)

→その言葉が「何を指示しているのかを絶対的に確定することはできない」(p81)

→指示の不可測性

 

予測の限界

・「個別」から「普遍」を求める帰納法に対する「暗黙の信頼が、現代科学の方法論にも引き継がれている」(p119)

→ほんの僅かな入力で全く違う結果が生じるバタフライ効果のような複雑系は、帰納法による理論の普遍化がほぼ成立しない

→予測の不確実性

 

思考の限界

・この宇宙の物理法則が、まるで「調整」されているかのような「必然」性によって構成されているとする「強い人間原理」と、そのような法則が「偶然」に構成されたとする「弱い人間原理」(p205)

・科学知識や技術のパラダイムが、「「非合理的」な要因で変遷する傾向にある」(p223)

→トーマス・クーンのパラダイム

・人類や宇宙の起源、神の存在証明、インテリジェントデザイン等々

→思考の限界と様々な不可知性

 

感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

 

 行為の限界

行動経済学が明らかにした、人間の様々な「認知バイアス」による非理性的行動、そして思考における「二重過程理論」

→不合理性

 

意志の限界

・「自由」を人間の意志による「行動」だとすると、

→その「自由」な「行動」は遺伝子による利己的なふるまいとして説明できる(ことがある)

→不自由性

 

存在の限界

利己的な遺伝子が繁殖を続けることで「世界には生々しい「実存」が優先してある」にも関わらず、「人間は、何らかの「本質」を懸命に探し求めて」しまう(p202)

→芸術家が「美」を求め、「科学者や哲学者や宗教家も〜「真理」や「正義」や「神」を追求して」しまう(p201,202)

 →不条理性

 

 

症例でわかる精神病理学

症例でわかる精神病理学

 

 具体的な症例をふんだんに用いて、多様な治療法の観点から「精神病」とカテゴライズされる症状を概観できる読みやすい一書。治療法(治療者)と病者との相性やDSM-5の功罪なども、初心者にもわかりやすく噛み砕いて説明されている。

 

数量化革命

数量化革命

 

 

ルネサンス期の西ヨーロッパ社会においては、「楽譜や軍の隊形、会計簿や惑星の軌道も一種の量、あるいは数量的な表現の一形態とみなす」ことで、世界を把握しようとした(p24)。

 

複式簿記を用いると、収集した大量のデータをとりあえず保存しておいてから、しかるべく配列して分析することができる。〜商業や製造業や行政に携わったルネサンス期のヨーロッパ人と彼らの後継者たちが会社や行政制度をつくり、こうした組織を運営してゆくうえで、複式簿記は重要な役割を果たした。〜効率を追求したこの修道士は、落ち着きのないこどものように一時もじっとしていない食料品店や国家を静止させて数量的に処理する方法を、私たちに教えてくれたのだ(p278,279)

 

 

データサイエンス入門 (岩波新書)

データサイエンス入門 (岩波新書)

 

 多量に溢れるデータの数々を①分析し、②分かりやすく企業や行政に説明(プレゼン)し、③改善策や新たなアイディアを創造する、という「データ・サイエンティスト」が、これからの時代には必須の人材となるというお話。

「データに依存「しすぎる」ことのメリット/デメリット」という議論以前の、あまりにデータに依存「しなさ過ぎ」という観点から言っても、記録・記憶することへの配慮があまり見られないこの土地柄では実現はなかなか難しそうだなあ・・。

  

 

美容整形というコミュニケーション――社会規範と自己満足を超えて

美容整形というコミュニケーション――社会規範と自己満足を超えて

 

 以前新聞の書評を見たので読んでみた。

 

・「「手入れ」の対象」(p72)であったはずのシミやシワといった、「人生の当たり前の過程であったはずの老化は、「原因」があるものと措定される。したがって老化は「治療」の対象とできる」(p74)

 

・外見に手を入れる美容整形を行う理由として、「他者へのアピール」が前提とされ、その他者とは「「異性」や、より抽象化された「社会」が暗黙裡に想定されていた」(p172)。社会とは要は「社会規範」である(p172)。だが、アンケートによる調査の結果、より具体的な他者の姿が浮かび上がってきた。

〜外見を変える契機は、家族との日常的な会話や、友達による美容経験や、待合室でのうわさ話といった何気ない生活空間の中に−つまりは女性たちのネットワークという地平の中に−埋め込まれていると分かった。その地平とは、女性たちがつながっていく「ポテンシャル」と、美の基準を押しつける「社会的抑圧」の双方がせめぎ合う場でもあるだろう(p175)

 

2019年6月に読んだ本

 

21世紀の戦争と平和: 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか

21世紀の戦争と平和: 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか

 

 頂き物

「徴兵制」というキーワードが目を引きがちだが、本書の主眼は国民国家を維持するための方法論である。

一般市民の平和と安全を担保する統治機構として現状機能しており、かつ、よりマシな統治方法が出てこない以上、国民国家というシステムを維持していくことが現代を生きる我々の優先事項である。

その前提の上で、国家という単位での統合の契機としての「徴兵制」、及び「血のコストの共有」による「シビリアンの戦争」を回避するというロジックは、複数の徴兵制を実践してきた/している諸国家を考察することでその有効性を実証しているように見える。

 

これに対する感情論を排した有益な反論はありうるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

経済学関連で読み散らした本

デルの革命 - 「ダイレクト」戦略で産業を変える (日経ビジネス人文庫)

デルの革命 - 「ダイレクト」戦略で産業を変える (日経ビジネス人文庫)

 

  

クルーグマンの国際経済学 上 貿易編

クルーグマンの国際経済学 上 貿易編

 

 

あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実

あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実

 

 

 

 

 

2019年5月に読んだ本

 

 

本居宣長 (1978年)

本居宣長 (1978年)

 

 

〜二重構造ともいうべき姿勢、つまり正しい道理を自覚し、その実現を期待する志向を失わないという姿勢は、宣長において相当に根の深い姿勢であったと言わなければならない。〜後に述べるように終生、この姿勢は持ちつづけられ、また、彼の思想の核心にかかわるものにまで結晶することになったと思われるのである。(p215,216)

 

一面において宣長は、今の世をこえた正しい道理を考える。だが他面において、あくまでも今の世に随順することを強調する。今の世を基準として考えて、難のなさを求め、わがままを否定する。(p213)

 

 

 

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)

 

 

  

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

実際の統計データを物語中に織り交ぜつつ、現実的で具体的な表現で「韓国で生きる女性」を描き出すその筆致は、ある意味、文学における「抽象性」や「深み」を脇においてまで、表現したいある「領域」があることを感じさせる。

 

社会変革が進む過程で起こる世代間・性別間の摩擦と葛藤。新しく生まれた価値観を認める人達と認めない人達できれいに社会が分かれるわけではない現実においては、相手の考え方を納得はできずとも理解はできるゆえの気遣いが世代・性別を越えてやり取りされる。主人公のキム・ジヨンはその不合理で差別的な社会構造に気付くたびに、時に傷つき、拒絶しながらも、諦めの気持ちを抱きもする。

 

社会の構造的暴力が残存するその「領域」は、1人の女性が抵抗しただけではどうにもならないほど強大で、無慈悲である。少なからぬ人々にとっての疑わざる常識ですらあるがゆえ、あまりにも強固である。その内実を描き出すために、(意識的にせよ無意識的にせよ)選択された「わかりやすい」文体には、現実社会で議論を呼び起こすきっかけとなっているこの現実を見れば、その有効性が実証されていると言うことができるであろう。

 

説教したがる男たち

説教したがる男たち

 

 

別に男に意地悪したいわけじゃない。ただ、暴力が一体どこから来るのか、それについて私たちに何ができるのか、もっと生産的に理論化できると思うだけだ。米国の場合、簡単に銃が手に入るということも大きな問題だが、だれにでも銃が手に入るにもかかわらず、殺人犯の九十%は男性なのだ(p32)

 

 

パワー

パワー

 

 

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 

 

 

 経済学関連で読み散らした本

集積の経済学

集積の経済学

 

  

経済学原理〈第2〉 (1966年)

経済学原理〈第2〉 (1966年)

 

  

モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質 (経済産業研究所・経済政策レビュー)
  

 

 

国家の退場―グローバル経済の新しい主役たち

国家の退場―グローバル経済の新しい主役たち

 

 

 

 

2019年4月に読んだ本

 

 

 

私は先ほど、一般的通念に反して「私」は主格であることができない、と述べた。その理由は、「私」が事物や出来事が「於いてある」場所だからであった。これは、判断論の見地から言い換えるなら、私とは述語となって主語とはならないものだ、ということであり、さらに言い換えるなら、それに対してはさらに述語を付け加えることができない絶対無の場所であるということである。
述語となって主語とならないということは、言い換えれば、対象化されないということである。意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。 (p92)

 

 

テアイテトス (ちくま学芸文庫)

テアイテトス (ちくま学芸文庫)

 

 

 

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

 

 

 

 

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)

 

 

 

 

 

 

 

イマヌエル・カント (叢書・ウニベルシタス)

イマヌエル・カント (叢書・ウニベルシタス)

 

 

〜国法に基づいて保証される抵抗権と革命権という考えは自己矛盾であるであろう。〜なぜなら抵抗を要求するような政治状況、失われることのない人権の侵害は、理性法のアプリオリな規定に対する公然たる違反として根本において適法ではないからである。カントにおいては国家は第二順位の法制度であるので、国家は自己を目的とするのではなく、それが保証すべき第一順位の法制度へと後ろ向きに拘束されているのである。(p249)

 

国家によって規定された「抵抗権」および「革命権」という権利は、「理性法」の目的である人および「人権」を法的に保障する国家の役割の不履行を前提する故の「自己矛盾」である。カントによれば国家は、国家という「自己を目的とするのではなく」、ただ道徳法則を実現するための「第二順位の法制度」であるに過ぎないのである。

 

カントの妥協のない抵抗権拒否は、本来的契約というアプリオリな批判的理性理念と、歴史的に与えられた法秩序と国家権力という経験的現実的な要因との不当な同一視から生じるのではないか(p249)

 

ーーーーー

 

自然において規則性と体系的連関を見出せると期待する権利が我々にはある、ーーこれがカントの超越論的演繹論の極度に簡略化したものである、ーーというのも我々はこの前提の下でのみ自然の客観的認識を求めることができるからである。自然の形式的合目的性は、すべての自然研究が常に予め、それ故アプリオリに承認している期待の地平である。(p283)

 

人間の認識や科学の成立の条件は、我々が「自然において規則性と体系的連関を見出せると期待する権利」を持つゆえであり、その「期待の地平」の「下でのみ自然の客観的認識を求めることができる」のである。

 

ゆるく考える

ゆるく考える

 

 

 

 

本居宣長(下) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

 

 

 

 

〈あいだ〉を開く―レンマの地平 (世界思想社現代哲学叢書)

〈あいだ〉を開く―レンマの地平 (世界思想社現代哲学叢書)

 

 途中まで読んだ。後で買おう。

 

 

日本代表とMr.Children

日本代表とMr.Children

 

 

 

 

Anti-Vaccination についてのメモ


最近 CNNで ant-vaccine 関連のニュースをよく見かけるので、下記のニュースで紹介されていた本を取り寄せて少しだけ読んでみる。

edition.cnn.com

 

 

 

Vaccines Did Not Cause Rachel's Autism: My Journey as a Vaccine Scientist, Pediatrician, and Autism Dad

Vaccines Did Not Cause Rachel's Autism: My Journey as a Vaccine Scientist, Pediatrician, and Autism Dad

 

 

Currently, 18 US states allow nonmedical exemptions for reasons of personal or philosophical beliefs, and some major metropolitan areas, including Seattle and Phoenix, are also at imminent risk of measles outbreaks (xiv)
[現在アメリカの18の州における、個人的な思想信条による非医学的な(予防接種)拒否が、シアトルやフェニックスを含む大都市圏での麻疹流行の危険性があることを認めた。]

 

~phony propaganda released by an anti-vaccine movement that began in 1998.  (xiv,xv)
[間違った宣伝によるアンチワクチン運動は1998年に始められた]

 

ーーーーーーーーーー

Andrew Wakefield

In 1998, Andrew Wakefield and his colleagues created a medical storm and generated widespread interest following publication of their paper in the Lancet in which they reported a gastrointestinal syndrome associated with colitis and intestinal lymph node hyperplasia that was linked to “developmental regression in a group of previously normal children” who had received the measles, mumps, and rubella(MMR) vaccine.(p16)
[1998年、アンドリュー・ウェイクフィールドとその同僚が、大腸炎と腸リンパ節の異常増殖によって引き起こされる胃腸疾患が、麻疹・おたふくかぜ・風疹に対する予防接種を受けた子供の集団における発達の後退と結びついている、という記事を自ら発行しているLancet誌に掲載し、多くのメディアからの注目と話題をつくりあげた]

 

Despite the overwhelming scientific evidence that vaccines don’t cause autism, an American and international anti-vaccine movement remains stronger than ever and is causing thousands of parents to stop vaccinating their children (p17)
[ワクチンは自閉症を引き起こさないという膨大な科学的証拠にも関わらず、アメリカおよび国際的なアンチワクチン・ムーブメントは変わらないどころかより影響力を増しながら、多くの親たちに、彼らの子供たちに対する予防接種の拒否を引き起こしている]

 

~in 2011, the lead editors of the BMJ(British Medical Journal) commissioned Deer to produce a series of articles about Wakefield. Writing about Deer in a series preface published in the BMJ, the editors note that “ it has taken the diligent scepticism of one man, standing outside medicine and science, to show that the paper was in fact an elaborate fraud”. (p58)[Brian Deer, investigative reporter for the Sunday Times(London)(p58)]

[2011年、ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)の編集者が、サンデー・タイムズ紙の調査報道記者のブライアン・デーア氏にウェイクフィールド氏の記事についての調査を依頼した。BMJに発表されたデーア氏の記事に対する編集者の序文はこう述べる。「一人の男によってとられた熱心な懐疑主義的な態度は、医学及び科学とは別の観点に立脚しており、事実その文章は精巧な欺瞞の様相を呈している]

 

【イギリス】ウェイクフィールドの文書が提出されて以来、1996年~2003年の間に、MMRワクチンの接種率が90%から80%に低下し、2006年には他の予防接種と比べてMMRの接種率が10%も低いままであった。
1998年に56件→2006年に400件以上の麻疹感染が確認された。(p59)


【ヨーロッパ】MMRワクチンと自閉症の関連性という風評がヨーロッパにも拡大し、2017年現在、ルーマニアとイタリアが主要な麻疹の感染拡大地となっている。

 

~once vaccination rates go below 90 to 95 percent, we see measles. Such is the situation we currently face in Europe. We can reliably expect to see significant European measles outbreaks in the coming years」(p60)

[予防接種の割合が95%から90%に一度低下するだけで、私たちは麻疹の患者に出会うことになる。このような状況はすでにヨーロッパが直面しており、近い将来ヨーロッパでの麻疹感染が確実に拡大することが予測されている]

 

ーーーーーーーーーー

③ Thimerosal


2001年に発表されたウェイクフィールドの論文では、水銀を含んだ防腐剤が自閉症を引き起こすと主張されている。本来水銀は神経症や行動障害を引き起こすことがわかっているにも関わらず、その後一部の人々が日本の水俣病を例にとるなどして、水銀と自閉症の関連性の主張を続けている。(p61)


アメリカでは安全性が発表されているにも関わらず、thimerosal(チメロサール有機水銀化合物の一種)をワクチンから除去する動きが広がっている。

 

Despite vaccinating children with thimerosal-free vaccines for many years now, the rates of autism have remained unchanged」(p62)

[もう何年も、チメロサールが含まれない予防接種を続けているにも関わらず、自閉症者の割合は変わっていない]

 


Thmerosal(チメロサール)について、日本の医療機関のホームページで肯定的・否定的意見のページを見つけたので、それぞれリンク↓

 

www.azabu-iin.com

www.fukuhara-kodomo.com

 

ーーーーーーーーーー

④ California

A California -based pediatrician, Dr. Robert Seaes, wrote a book that became a best seller. The Vaccine BookB: Making the Right Decision for Your Child, by “Dr. Bob”(as he is sometimes known) proposes alternative immunization schedules based on an erroneous belief(p63)

 

Nevertheless, the alternative schedule proposed by Dr. Sears has found enough acceptance among for parents to request delays in the vaccine schedule or to with hold it altogether. Such requests are contributing to gaps In vaccine coverage(p64)

 

~in California private schools the philosophical exemption rate more than doubled between 1994 and 2001, and then almost doubled again by 2009」(p90)

 

2019年3月に読んだ本

 

本居宣長 (中公新書)

本居宣長 (中公新書)

 

 

 

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(上) (新潮文庫)

 

 

 

 

 

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史

 

 

一世紀半前に鉄道が退屈なほど高速となって以来、知覚もわたしたちの期待も加速された。人びとは機械の速度に寄り添うようになり、身体の速度や能力に不満や疎外感を感じるようになっている。〜現代アメリカ人が手にする時間は三十年前よりも圧倒的に少なくなった。言い方を変えれば、工場の生産速度が上がっても労働時間が減らないのと同じく、輸送速度の上昇は人々を移動時間から解放することはなく、むしろさらに拡散した空間に縛りつけるようになった(たとえば、カリフォルニア人の多くのは毎日の自動車通勤に三時間から四時間を費やしている)。(p434,435)

 

ジムという屋内空間は姿を消しつつある屋外空間の埋め合わせであり、損なわれつつある身体の一時しのぎでもある。ジムは筋肉や健全さを生産するための工場であり、多くは工場のような外観を呈している。殺風景で工業的な空間に金属のマシンが光り、孤独な人影が個々の反復的なタスクに没頭する(工場的な美学もまた、筋肉と同じく郷愁の対象なのかもしれない)(p439,440)

 

産業革命では身体が機械に適応せねばならず、苦痛や負傷や体の歪みなどの過酷な影響をもたらした。それに対して、トレーニング・マシンは身体にあわせるようにしてつくられる。〜肉体労働は一度目は生産労働として、二度目は余暇の消費活動として再来する。行為から生産性が失われたことだけではなく、腕力にはもはや材木を動かしたりポンプを動かして水を吸い上げたりといった使途がないことにも、この変容の意味深さがあらわれている。(p441)

 

歩行の衰退の本質にあるのは歩く場所の喪失だが、そこには時間の喪失もある。あの物思いを誘うかたちのない時間、そこに充溢する思惟や求愛や白日夢や眼差しを喪失すること。わたしたちの生は、高速化してゆく機械に歩調を合わせてきたのだ。(p435)

 

 

 

 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 

 

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

 

 

 

 

Vaccines Did Not Cause Rachel's Autism: My Journey As a Vaccine Scientist, Pediatrician, and Autism Dad

Vaccines Did Not Cause Rachel's Autism: My Journey As a Vaccine Scientist, Pediatrician, and Autism Dad

 

 ↓

Anti-Vaccine movement についてのメモ - einApfelのブログ

 

 

2019年2月に読んだ本

 

 

虎山に入る

虎山に入る

 

 

 

 

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

 

 

世界に時間的な始まりがあったか否かという問題〜は、肯定的に答えるにせよ、否定的に答えるにせよ、人間の理性によって論証的な仕方で、明確な根拠を伴って証明することはできないたぐいの問題だとトマスは述べている。ここには、人間の理性の限界についての痛切な自覚が見出される。(p43)

 

 トマスによって洗礼を施されたアリストテレスの理論は、もはや、それ以前のアリストテレスのままではない。だが、だからといって、アリストテレスとは似ても似つかぬものになってしまったわけでもない。そうではなく、アリストテレスの理論のなかに潜在していた可能性が、トマスを介したキリスト教との出会いを通じて新たな仕方で顕在化してきたということなのだ。(p99)

 

「「意思」を軸に信仰を捉えようとした」 ウィリアム・ジェイムズや、「「神への全き依存感情のうちに宗教的信仰の本質を」捉えようとしたシュライエルマッハーと比べて、トマスは「意思」や「感情」より「「知性」を軸にした信仰論を展開している」。(p111)

 

キリスト教の教えが、単純な仕方で「答え」を与えるのではなく、むしろ「問い」を与え、そのことが人間を理性的存在としてより深く広く完成させていくというのは、トマス哲学・トマス神学の最も基本的な構造だ。(p228)

 

すべてを把握できるはずという傲慢からも、何も理解できるはずがないという諦めからも解放されて、イエス・キリストによって開示された神の神秘へと理性によって肉薄していこうという開かれた態度、それがトマスの探求を貫いている根本精神にほかならない。(p267)

 

 

 

カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書)
 

 

純粋理性批判』におけるカントの意図は、純粋数学と純粋自然(科)学にすでに実例を持つアプリオリな総合判断の可能性と範囲を限定し、それによって、形而上学を含めたあらゆる学の、学としての条件を明らかにすることにあった。こうした意図からして、その基盤となるものは、「仮説」的なものであってはならなかった(p104)

 

 あらゆる認識の「基盤」となる普遍的・必然的な「条件」を見出すことを目的とした(『純粋理性批判』における)カント哲学は、カント自身に強く影響を与えたロックやヒューム、そして批判対象としてのバークリらの理論を歪めた、ないしは一定のアレンジを加えた構造を持つ、と著者は主張する。

特にジョン・ロックの経験論において、観念を生み出す原因として感官を触発する物そのもの(things themselves)は「仮説」として、「われわれが日常親しんでいる(経験的対象)とはなんらかの点で異なる新たな物を、さまざまな常識的・科学的理由から仮説的に想定する必要が生じた結果として、導入される」。(p50)

あくまで「科学的」仮説として採用されたロックの「物そのもの」が、カントにおける「物自体」(Ding an sich)になるとその装いを変えて運用されることになる。

 

物自体は現象ではなく、我々の知性に組み込まれた純粋知性概念は現象にしか適用できないのであるから、物自体の認識はカントの観点からすれば不可能となる。しかし、これはあくまで、感性と知性の働きに関するカントの説が妥当であるとした場合の話である(p63,64)

 

純粋知性概念(カテゴリー)という普遍的・必然的な概念を導出し、あらゆる経験的なものを排除した理論を目指したカントにおいて、「仮説という蓋然的知識に基づくものであってはならないという強い意識」が、ロックの「物そのもの」とカントの「物自体」が対応関係にありながらも、異質な様相を帯びることとなった。(p64)

 

バークリやヒュームが観念語法の基本的枠組みである自然(科)学的仮説に基づく枠組みを廃棄し、あるいは半ば消去しながら観念語法を維持したのと同じように、カントもまた〜、物自体を認識不可能としながらも、「われわれは現象の背後になお他のなにか、現象ではないものすなわち物自体を、容認し想定しなければならない」という、「物自体」と「現象」の原初的関係を維持し、これを『純粋理性批判』のきわめて重要な前提としたのである(p65,66)

 

「「物自体」と「現象」の原初的関係を支えていた仮説的枠組みに依拠しながら、物自体の仮説的探求可能性を廃し、「物自体」と「現象」の原初的関係のみを残したこと」、カントが選んだその「枠組み」こそが、カント自身が生きた時代潮流から影響を受けつつそこから距離をとろうとする「強い意思」によって引き起こされた「歪み」ではないか。(同前)

 

ロックとカントの共通点を再確認しながら、バークリとヒュームに見られる「観念」という概念の時代潮流的使用法が、カントにどのような哲学的筋道を歩ませることとなったのか。普遍的・必然的な理論を目指したカント哲学の「特殊性」を炙り出そうとする著者の試みに対する反論があれば、合わせて読んでみたいものだ。

  

 

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

入門ユダヤ思想 (ちくま新書)

入門ユダヤ思想 (ちくま新書)

 

 

無限といい有限といい、いずれも「限界」「境界」に係る事象であるのは言うまでもない。何かを二つに分けるとき、その切断線そのものは無視されてしまう。そのような非存在としての切断線もしくは輪郭線にこだわり続け、それどころか、この切断線もしくは輪郭線そのものと化し、それを生きること、それが《ユダヤ》であると私は考えている(p19,20)

 

〜無限と有限という橋渡しできないものを架橋し、人智を超えた無限とその「法」〔法則〕に、人間たちの日常のありとあらゆる行動を適合させようとすること。そもそも不可能なのだが、それを遂行するのが《ユダヤ》にとっては「文学」であり「言語」である。そして「注解」ないし「解釈」であった(p17,18)

 

 

『神話と人間』:ロジェ カイヨワ 収録の「かまきり」という論文において、生物の可塑性が論じられるという紹介があった。気になる。

 

 

 

文体の科学

文体の科学

 

 

〜対話体で書かれた文章は、見知らぬ読者に向けられているとしても、そこに書かれていることば自体は、対話者のあいだで交わされており、宛先が分からないということはない。また、〜私たちが日常生活のなかで、日々誰かと行なっているおしゃべりに似て、親しみのあるものだ。それに対して、独話体の文章は、文字通り誰かの独り言のようである。そして、現在、書物のほとんどは独り言のように書かれている。それを書いたり読んだりするのはどういうことなのか。その独り言を入れて移動できるように形を与える書物(やそれに類する物)とはなんなのか。

 実は本書全体の底には、このようなぼんやりとした疑問がある。(p107,108)

  

言語起源論の系譜

言語起源論の系譜

 

 

規範や理想として参照されるべき「自然」が創出され、その連続する「自然」を環境にして「歴史」が創出された結果、言語についても「歴史」を語ることが可能になった。(p120)

 

ウェストファリア条約に象徴される世俗権力と宗教権力の分離、さらには独立を果たした諸国家の自立性の主張と連動しながら、言語の「歴史」は、シモンが言う「みずからの言語のために争っている」民族に、みずからの言語の正統性を「人為」に基づくものとして改めて証明しようとする欲望を与えた。(p124)

 

「神」なしで言語の創設を、そして国家の創設を根拠づけることを強いられる時代ーそれが「近代」と呼ばれる時代である(p144)

 

それから数年後に公刊されたのが、シュライヒャーの名を高らしめた『インド・ゲルマン語比較文法概要』であり、この著作によって比較文法としての言語学は、「有機体」として捉えられた言語の変化を司る「法則性」を追求する学問として、一つの頂点を迎える。あの「言語系統樹」が掲げられたのは、一八六一年に刊行された、この書の第一巻にほかならない。その系統樹が二年前に公刊された『種の起原』に収められている「種」の系統樹と酷似しているのを見ても、もはや何の不思議もないだろう。(p358)

 

 

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)

 

「言葉の原義からメタファーが展開される」という常識的な理解に反して著者は、「メタファーによって言葉の意味が導かれる」ということを指摘する。

 

メタファーはしばしば思考の原点であり、私たちの行動までも統率する。議論に臨むとき、戦争のメタファーと建設のメタファーのどちらを選択するのか、これによって反目か協力かの体勢が決まるのだ。戦争のメタファーを選べば相手を打倒することが目的化するだろうし、逆に建設のメタファーに基づけば一致協力してひとつの成果を目標とすることになる。(p87,88)

 

これは時間にしても同様である。Time is money、「時間」と「金」は代替可能、と現代ではすっかり定着している言葉の作者とされるのはアメリカ建国の父と称されるベンジャミン・フランクリンである。「ここに功利的な近代資本主義の精神を読み取ることは難しくない」と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘されているように(p81)、資本主義の発展に伴って「時間」(Time)という語が「金」(Money)と強く結びつき、現代的な「時間」の意味がその(「金」的な)影響を受けている。

 

その結果、

「時間」という語を調べようとして『広辞苑』や『新明解国語辞典』といった辞書を繰ると、「万人向きの国語辞典に正反対の記述が見られる」(p39)状況を引き起こしたり、

「時間」という語や西洋思想を導入した明治期に書かれた夏目漱石の小説群、そこで使われる「時間」という語が、計量可能な「金」の意味合いに次第に接近していく様を見て取ることができる。(第二章 2 時間の意味ー計量されるもの 参照)

 

時間を浪費する/させるは今日では平凡な表現になってしまったが、〜これはより洗練度が増した計量表現である。〜時間はこのようなプロセスを経てしだいに西欧的な計量思考を体現する概念となって私たちのことば=思考に浸透していく(p78)

 

 

 

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

 

 

 

琥珀のまたたき (講談社文庫)

琥珀のまたたき (講談社文庫)