「カントと物自体」 エーリッヒ・アディッケス

カントと物自体 (叢書・ウニベルシタス (58))

カントと物自体 (叢書・ウニベルシタス (58))

 

↓ まだ体力が残っていた序盤の内で気になった個所を抜き書きしただけ・・。

 

カントは現象を出発点にとっていない。したがってかれの問題は、なにかそれ自体存在するものが現象に対応するかどうか、またそれ自体存在するものへの道はいかにして見出されるかといった方向で立てられていない。かれの出発点はむしろ経験的に与えられる現実である。かれはそのうちわれわれの精神の或るアプリオリな付加物を発見し、そのために、現実と現実の諸対象とはわれわれにはそれらがそれ自体あるがままには認識されず、それらがわれわれに現象するすがたにおいてのみ認識されうると考えた。このような現象存在(ザイン)は現実の一面である。それには他面として即自存在が対応するということが現象存在と共に同時に与えられている。(pp15~16)

 

物自体としては対象はわれわれの意識の外にあり、われわれの自我自体を触発する。現象としての対象には、われわれのアプリオリな諸形式が付着(ベハフテン)しており、この対象はわれわれの表象として、われわれの意識世界の一部をなしている。(p17)

 

物自体と現象を二つの異なった存在者とみなし、両者は同じく現実的で、ただそれぞれが別のあり方をし、いわば原像と模像のように互いに対峙しているかの如くみなそうとするのは、大きな誤解と言わなければならないだろう。(p25)

 

われわれが認識をもちうるのは、対象が感性的直観の客観であるかぎりにおいて、すなわち現象としての対象についてであって、物自体としての対象についてではない。そこからあらゆる思弁的理性認識の経験的対象への制度が生ずる。だがわれわれはまさに同じ対象を物自体としても少なくとも思考しうるのでなければならないという留保がつけられる。(p26)

 

 「物自体」は現象でも概念でない→悟性に捕えられていない、そしておそらく感性にも知覚されていない、”現存在”として存在する「物自体」、ってかんじなのかなあ・・。