「西洋哲学史―近代から現代へ」第15章 語りえぬもの 

 

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

 

 

Ⅰ、ハイデガー、Ⅱ、ヴィトゲンシュタイン、Ⅲ、レヴィナス

 

 

Ⅰ、ハイデガー

 

なぜ無ではなく、むしろなにものかがあるのか(「自然と恩寵の原理」七項)(p67)

 

世界に存在するそれぞれの個物は、それぞれが区別可能な差異を持っている。別々の個体、異なる存在者たちが世界に存在するには、その差異のための十分な理由が求められる。ある存在者はなぜ他のものではないのか。どのような理由のもと、“ある”のか。

偶然的でない、必然的な理由をもつ存在者として世界にあること、創造者によるそのような創造、形而上学的問いがライプニッツによって投げかけられた。

 

一方ハイデガーはどうか。

 「「存在」は、存在者といったものではない~」(一節)。「存在者の存在は、それ自身ひとつの存在者で「ある」のではない~(二節)。―存在は「机や家や樹のように」は存在していない(九節)。存在者は存在する。たとえば、机や椅子や、家や庭、リンゴや樹が存在する。存在は存在しない。「存在は「与えられている」~」(四三節)のである。(p242)

 

机は存在者である。机という存在者は存在する。ただ存在は存在しない。机という存在者は存在とは別である。存在と存在者の差異を問うこと、存在それ自身を問うことは今日では顧みられない。この現状の問題点をハイデガー存在忘却と名付ける。

 

 存在忘却とはさしあたり「存在者に対する存在の区別」を、存在論的な差異を忘却することである(「アナクシマンドロスのことば」)。ハンマーがあり、作業台があり、作業場がある。樹が生え、河が流れ、山が聳える。森は静まり、大地と蒼穹とがひろがっている。存在するものの輝きと自明さのなかで、存在者の存在がむしろ忘れられている。(p244)

 

日々の生活を営む中で人は、世界の一部として様々な文化や習慣に身を任せながら生きている。そうしたふるまいに疑問を呈することなく時を過ごしている。

そんな中で立ち止まり、今この場所に存在する私(現存在)を意識すること、「存在の意味への問い」(p243)を問うこと、そして「死と無をめぐる経験が、その根本的な場」(p245)として立ち上がる。

 

私は「死の可能性を追い越すことができない」(五〇節)。私はだれのかわりに死ぬこともできず、だれも私のかわりに死ぬことができない。「死は現存在のもっとも固有な可能性である~」(五三節)。(p246)

 

 日々の惰性に流されるひとから今この場所に存在する私(現存在)へ、“自分の死”という自ら引き受けざるをえない可能性を引き受けることこそが、「みずからの存在の可能性を「本来的かつ全体的に、すなわち根源的に」取りかえすことになる(六二節)。(p246)」。

 

 

Ⅱ、ヴィトゲンシュタイン

 

このハイデガーの問いを受けたヴィトゲンシュタインはこう述べる。

 

(『ヴィトゲンシュタインとウィーン楽団』「一九二九年十二月三〇日 月曜日シュリック家にて」)

私は、ハイデガーが存在と不安とについて思考していることを、じゅうぶん思いやることができる。人間には、言語の限界に向かって突進する(anrennen)衝動がある。たとえば、なにかが存在するという驚きを考えてみればよい。その驚きは問いのかたちでは表現されえないし、答えもまただんじて存在しない。私たちが言おうとすることのいっさいはア・プリオリに無意味であるほかはない。にもかかわらず、私たちは、言語の限界に向かって突進する。 (pp248-249)

 

存在について問うこと、それは言語の限界を超えている。哲学という営為がその驚きゆえについ問うてしまう衝動、その向かう先は限界であり、限界より先を言語で語ることはできない。

 

ではどのようにして、言語は世界と関わるのか。

論理哲学論考からの著者の引用(pp250-251)をまとめれば、

 

世界:事実(≠事物)の総和

事実:思考の論理的像

思考:命題記号として世界の像を表現する

命題:世界と射影関係にある命題記号

 

となるだろう。

そして成立した事実を自然科学が記述し、別の領域が哲学に明け渡される。

 

「哲学は、自然科学の議論可能な領域を限界づける」(四・一一三)。哲学は「思考可能なものを境界づけ、かくてまた思考不可能なものを境界づけなければならない~」(四・一一四)―けれども、「哲学は語りうるものを明晰に描写することにより、語りえないものを指示しよう~とするだろう」(四・一一五)。(p251)

 

語りえないもの、「語りうるもののかなた」(p251)。世界は事実で満たされ「「世界のうちには、いかなる価値も存在しない」(六・四一)」(p251)。そこでは倫理的な命題は、世界内で成立することなく超越論的であり「世界の限界が問われる」(p252)ことになる。

 

 語りうることと語りえないこと、語りうることと示しうることとの区別が、『論考』の形而上学をしるしづけている。両者のあいだの、いわば存在論的差異の設定には、倫理的な態度がはらまれていた。倫理について語らないという、それじしん倫理的な態度が、である。(p252)

 

 

Ⅲ、レヴィナス

 

限界は、ウィトゲンシュタインがそう言っていたように、「言語の内部で」だけ引かれることができる。『論考』によれば、そして「限界のかなたにあるもの~」については語ることができない(同、序文)。(p256)

 

ただ、語ることの不可能性がただちに思考の不可能性へと、向かうのだろうか。語りえないものを思考する、わずかでも思考を紡ぐ隘路が見出せはしないだろうか。

 

超越が意味をもつとすれば、それは、存在というできごと~、存在~、存在すること~が、存在とは他なるもの~へ過ぎ越す事実以外のものを意味することはできない。けれども存在とは他なるものとは、いったいなにを意味しているのだろうか。[中略]

 存在の他者へと過ぎ越すとは、存在とはべつのしかたで~ということである。べつのしかたで存在すること~、ではない。存在とはべつのしかたで、である。もはや存在しないこと~でもない。過ぎ越すことはここで、死ぬことと同義ではないのである。(『存在するとはべつのしかたで』第一章・冒頭部)(p257)

 

語りえないもの、倫理、超越、「「存在の他者」「存在の彼方」」(p257)。

 

 「別のしかたで存在すること」と言った瞬間、それは既に私に所有された他者である。他者性を剥奪された他者はもはや他者ではない。存在とはべつのしかたで、「語られたこと」に回収されない他者を語ること、「「語られたこと」を超えて、なお「語ること〜」が継続される必要がある。」(p258)

 

無でも、非存在でもなく、世界のなかでは不在であるもの、存在するとはべつのしかたで秘匿されているものについて、語りださなければならない。存在とはまったくことなる他者について、語られなければならない。(p258)

 

語り続けること、「語られたことを打ち消して~、語りつづけられることが必要なのである」(p258)。