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生育環境、情動のコントロール、強まるばかりの社会の規格化、言いようはいろいろ。
気になったのは、「黒か白か、0%か100%か、成功か失敗か、敵か味方かというように、中間がなく、両極的な見方に偏ってしまいやすい」(p89)という指摘。
境界性パーソナリティ障害で見られる、対人関係や気分の面での両極端な変動を生み出したり、増幅したりする原因となっているのが、この二分法的認知である。(p89)
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再読。ライプニッツの問いから、ハイデガーの「形而上学入門」(平凡社)の訳注1及び5を読んで面白さが増した。
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20世紀後半のアメリカ哲学を読みやすく解説。
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哲学は道。ぼくたちをどこかへ連れ出す通路にすぎぬ。(p82)
個々人が目覚めるしかない存在神秘、そこへ向けた道を指し示し続けたハイデガー。研究でも解説でもない、ハイデガーに寄り添う著者の立ち居振る舞いが込められている。
生であり死。死の可能性として生。相即相入。そのような存在。これは去年の「中動態の世界」はもちろん、中沢新一の「レンマ学」とも異口同辞なのではなかろうか。
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現代社会と違い近代ヨーロッパにおいては、夜は闇と非常に近い関係であった。人工照明(蝋燭)は節約対象であり火事の原因ともなる。夜間における闇の領域は私達の想像以上に広がっていたことがわかる。
闇に乗じた犯罪行為・妨げられない密通・騒がしい夜警・跋扈する悪魔や魔女・危険な夜歩き・階級からの解放・睡眠時の作法・分割睡眠
現代的な夜間の照明と治安の向上が、かつて存在した人と夜の関わり方をすっかり忘れさせていることに気付かせてくれる本であった。
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道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)
- 作者: フランソワ・ジュリアン,中島隆博,志野好伸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/10/11
- メディア: 文庫
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西洋近代に確立した「自我による能動的な道徳」という強力な規範に、(理論的に)揺さぶりをかける孟子の「憐れむという受動的な道徳」。
個別具体的な感情の起伏、宗教的な態度に代表される「~かのように」ふるまう弱い規範、中国思想における確固たる主体を据えない徳の在り方やその広がり。
この伝播は、目に見えずに広がって行き、しなやかで染み通るようであり、切れ目が無いが衰えを知らず、方向を与えるが重荷にはならない。それを別のイメージで言うなら、風である(『論語』顔淵一九参照)。(pp236-237)
政治に限らず様々な「風」に流されている現代世界には、よりいっそう応用可能ではなかろうか、なんてことも思う。
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動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 (河出文庫)
- 作者: 千葉雅也
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2017/09/06
- メディア: 文庫
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Don't move too much(動きすぎてはいけない)のnotは、move(動き)ではなくtoo much(すぎ)にかかっている。
ついつい読まれがち、“いわゆるドゥルーズ”的な接続過剰な面に対し、非意味的切断を強調することで、ばらばらな固体化への道がドゥルーズにはあるんだよという提案が著者の主たる主張ではなく、一つの極に振れすぎた針のバランスを取るために別の極を示すこと、それこそが目的だと言えるだろう。
インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二十一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくさせるものでもある。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(pp288-289)
あえて大きな主張をわかりやすく取り上げるとすれば、こういったことではなかろうか。
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若きドゥルーズが書き記した制度・本能についての書。本来は高校教師であった時代に教科書として作成されたそう。
様々な虫や動物と比較される「人間」に対するドゥルーズの距離感がとても独特な立ち位置に感じた。まるで細くたよりない糸程度の繋がりしかない「人間」という種に対する考察、「動きすぎてはいけない」(河出文庫)で強調されていたような「切断」的な雰囲気を感じさせる。