論文集。なかなか硬派な内容には通奏低音として、「マルクス哲学」の忘却、責任主体の不在が現代のポストモダニストの、かつて彼らが批判していた前時代的政治行動への再帰を促している→つまり左旋回、というかんじ、かな。
天体観測の基礎から始まり、数千年規模での天体の移動、古代世界の遺跡等から見いだすことのできる天文学的裏付け又は従来の説の見直しなどなど。あとがきにも書かれているように、この書籍を基本テキストに据えた天文考古学の歩みがこれから始められることを是非とも期待したい。
個別的な思考のネアンデルタール人から、流動的思考のホモ・サピエンス・サピエンスへ。隠喩・換喩を含む詩的な言語を獲得した人間は神話的思考のもと、自然との対称的関係を数万年間維持してきた。ところが、自然からテクネーによって取りだされた「食人的」な自然の力を手にし、辺境/非権威な存在であったシャーマン・戦士.・首長を融合させた一人の「王」が現れることで、「クニ」が生まれ、自然に対する非対称的な搾取が始まった。
それまで、対称性社会では「文化」と「自然」は異質な原理として、できるかぎり分離されていました。ところが、「自然」のものである権力=力能を社会の内部に持ち込んだ王のいる世界では、このような分離は不可能となります。王自身が「文化」と「自然」のハイブリットなのですし、クニの権力もハイブリッドを原理として構成されるからです。このハイブリットな構成体にあたえられた名前こそ、「文明」にほかなりません。(p201)
自然における人間との対話者である熊や鮭、高度に発達した帝国であった古代インドの内部に誕生した対称的関係を内包する仏教思想、これらは「神話的思考」、「野生の思考」との強い連関の元、変奏を重ねながら現代を生きる私たちにも強い影響を与え続けている。
二〇一四年に台湾で学生たちが立法院を占拠した「ひまわり学生運動」があって、その半年後には今度は香港で「雨傘革命」のデモがあって、その半年後の二〇一五年にはSEALDsのデモが始まった。そして、一六年には韓国で一〇〇万人のデモがあった。台湾、香港、日本、韓国と半年おきくらいに学生たちを含む大きな街頭活動があった。これは偶然ではないと僕は思います。(pp172−173)
これらをひとつなぎで捉えるのは市民活動にとってとてもプラスになるという意味で、未来に向けてこの時期の総括は意義があるなとなんとなく思う。
生物はどのような形態をしどこに生息しどのように進化してきたのか。火星には、木星の衛星「エウロパ」や南極の氷床下湖には生物はいるのか、ポストヒューマンを考えるためにはホモ・サピエンスに至るまでの“プレヒューマン”を考えてみてはどうか、微生物の“小ささ”の適切性、といった生物学エッセイが読みやすくまとめられていた。
生物界に現れる波紋、螺旋、フィボナッチ数列の影。それらの妥当性とトンデモ性をくだけた文体で解説する一書。「ジンクピリチオン効果」(無内容かつインパクトのあるワーディングで読者の目をひいてしまうこと)を解説したコラムは理系世界あるあるが実は文系的現象だった的なかんじで汎用性が高そう。
ついつい何日も考えてしまった。近代以降の人類は、このようなケースには「啓蒙」が必要だとしてきたのに対し、古くからの人類のそれはもっと別のかたちだったのだろう。
内容については頂けない部分もあるが、この本がインドのムンバイ地域で経済発展から零れおちていく人びとの貴重なドキュメンタリーであることに変わりはない。
現存在として世界に「開け」ていること、「形而上学の根本諸概念」を動物論/生物論として読み解くときにみえてくる人間(現存在)とはなにか、多くの示唆が示されている。