素朴な疑問を科学と数学の力でユーモアたっぷりに解こうとしたりしなかったり。
フェデックスの輸送機すべてにmicroSDカードを詰め込めば、毎秒約177ペタビット、言い換えれば1日あたり2ゼッタバイトのデータを移送できる。これは現在のインターネット・トラフィックの1000倍に当たる量だ(p249)
ダラス・カウボーイズ(アメフトチーム)が全速力で走りながら、あなたの隣人のガレージの壁に激突する。
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マグニチュード・マイナス3
ネコがナイトスタンドの上から携帯電話を落とす。
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マグニチュード・マイナス7
羽根が1枚ひらひらと地面に落ちる。(pp371-374)
これらを含めた多くの思考実験が魅力的なイラストとともに紹介されている魅力的な本。
科学的な数値還元と哲学的な概念還元を駆使し、人間を一つの自然物として記述しようとする自然主義について、様々な思考ツールと具体例を用いて読みやすくまとめられている。巻末の文献案内も至極充実。
原核細胞から真核細胞へ、単細胞から多細胞へ、「他」を取り込み「多」となることで「個体」の生物が生まれ様々な神経組織が発達する。さらには「主体」、「利己性」と「利他性」、遺伝子によって規定された愛からエゴイズムを経て利他的な愛へ
それは二重の超越である。つまり第1に、その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体」の自立化であり、第2にこの「個体」水準の自己絶対化からの自己超越である。(pp37-38)
・「利己的な遺伝子」による自分が属する「種」全体に益する行動、遺伝子的な「愛」
↓【第1の超越】
・「種」から「個」が分離し、エゴイズムによって「主体」を形成する(生存に必要な量を超えて食べる等々、「利己的」な行動)
↓【第2の超越】
・そうした「主体」を顧みず「利他的」に行動すること、脱遺伝子的な「愛」
わずかな部分を抜き書きしてみた。他にもおもしろすぎる論点がいっぱい詰まった本です
進化なしの歴史を考えることはできるかもしれないが、歴史なしの進化などおよそ考えられない。進化という概念にはそれが歴史の産物であるという意味が含まれている。生物の進化を研究するとは、その系譜を探ることであり、それはすなわち、祖先の世代から現世代へといたる歴史を跡づけることだ。(p278)
ネオダーウィニズムが主流となる現代の進化生物学において検討される生物群は、その進化の果ての0.01%の姿であり、99.9%の淘汰された生物を捨象した要素でしかない。圧倒的多数を誇る淘汰されてきた生物群に目を向けることなしに、進化を語ることは適切なのか、そう著者は訝る。
淘汰され絶滅した生物たち、かれらはただ弱いという理由だけで地球上から姿を消したわけではないことを簡単に思い出せる例は白亜紀の大量絶滅だろう。6500万年前、それまで一億年以上も地球に適応してきた恐竜たちが、隕石の衝突という運の悪い環境の変化に適応できずに滅んでしまった。そこでは生物が適応する環境が偶然によって理不尽なまでに変更したことが原因とされる。どんなに環境に適応しようとも、その環境自体のドラスティックな変化が理不尽なまでの絶滅を誘発することを思えば、進化が単に環境に順次適応し、着々と進歩史観的な道を歩むのではないことが想像できるだろう。
そうした前提を語った上で、「進化」、「ダーウィニズム」「自然淘汰(適者生存)」といった言葉を一般人/専門家がどう理解し使用してきたのか、その言語観や学説上の論争を辿りながら「進化」という概念の歴史を、淘汰され敗者となり絶滅したものに目を向けながら紡いでいく。それは「祖先の世代から現世代へといたる歴史を跡づけること」によって「進化」を考えようとする著者の試みだと言えるだろう。
愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/01/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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贈与の行為には、「贈与されるモノ」とそれを「贈与する人」とそれを「贈与される人」が必要です。そして、贈与されるモノはモノとしての個体性をもち、贈与する人にもそれを受け取る人にも、それなりの実体性が認められるときにだけ、不思議なところの少しもない、モノを媒介にした人格的な価値の循環が発生できるのです。(p54)
「贈与されるモノ」「贈与する人」「贈与される人」の三者のうち一つでも、同一性や個体性を失ってしまいますと、そこに神様をめぐる思考である「超越者の思考」というものが、入り込んでくる可能性が生まれてくるようです。(p55)
贈与社会の人々が、この世の富の発生という問題を考えるときに生み出した「純粋贈与」をおこなう力は、多くの場合、流動する霊力として思考されていました。この流動する霊力に対する直観は、大地や自然についての思考と感覚を培ってきたものですが、それがいまや金属の流動体(つまりは貨幣※引用者注)に姿を変えようとしていたのです。(p110)
純粋贈与する力の別名である霊は、社会や知の「外」にあるものなので、その霊力のもたらした贈り物はモノとして社会の中に持ち込むことはできても、富や豊饒さの源泉はけっして社会や知の内部に繰り込まれてしまうことはありません。それは、いつまでたっても「外」にとどまっています。
ところが、貨幣の形態に変態をとげた富は、富を生む源泉をそっくりそのまま社会の内部に持ち込んでしまいます。それまで自然や神のものとして、富の源泉は社会の「外」にあったものなのに、貨幣はそれを社会の内部に運び込んで、いっさいを「人間化」してしまう能力を持つのです。(pp110−111)
一人の「人間」としての丸山眞男。過ちも葛藤も煩悶も経験し、常にそれらを見据えながら「他者」と対話し続ける、そのような態度の実現を彼は「形式」に託した。
人と人、集団と集団、国家と国家が、それぞれにみずからの「世界」にとじこもり、たがいの間の理解が困難になる時代。そのなかで丸山は、「他者感覚」をもって「境界」に立ちつづけることを、不寛容が人間の世界にもたらす悲劇を防ぐための、ぎりぎりの選択肢として示したのである。「形式」や「型」、あるいは先の引用に見える「知性」は、その感覚を培うために、あるいは情念の奔流からそれを守るために、なくてはならない道具であった。(p210)
家族、隣人、留置所、従軍、療養所。激動の時代に多様な場所で出会う様々な人びとを他者として理解しようと務めること。「安易な同情の態度を捨て、その人を「他者」として理解しようとしながら、対話を続けてゆく。その過程で、ひるがえって自分自身についても、その「かけがえのなさ」を、驚きをもって自覚すること」を「精神的な自立の最後の核」(p171)とした。
そうした、「行動によってリベラルであることを実証してゆくには、どういう選択をすべきなのか」(p115)を問い続けた丸山が戦後に好んで口にしていたのは、ヴォルテールの「私はあなたのいうことに賛成はしないが、あなたがそれをいう権利は死んでも擁護しよう」であり。ローザ・ルクセンブルクの「自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自由である」であった。(pp115-116)
他者と対話を可能にする境界に立ち続けること。自由の「形式」を準備し、整え、維持すること。その動的な営みに自らを置くことが自由を実現する道であり、自由を信じたリベラリストとしての丸山眞男であった。
どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること、一九四五年八月十五日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追究してゆく営みの、原点となったのである。(p116)
この放送を視聴し、本書を購入した。
放送でも幾度か言及されていた「古典の一回性」、古典が作られた時代を取り巻くコンテクストを捨象して作品を理解することの困難さ、その言い換えともとれる箇所。
これまで五十年あまりの作家生活のなかで、ずいぶん雑多な小説を書きました。自分でも呆れるほどの統一感の無さですが、私自身そのことを負い目には感じてはいません。「雑であること」と「同時代的であること」が、私の物書きとしての初心にあるからです。(p66)
雑にズレ続けること、その瞬間を肯定すること、それは安直に結びつけるのが許されるのであれば、著者の敗戦体験(p17~)が原点なのではないだろうか。
戦後七十年経つなかで、様々な事実を戦争体験者が語ってきたように見えます。ですが、おそらく本当のことはほとんど語られていないように思います。(p223)
被害体験、加害体験、貧困、差別、国家の崩壊。一回性「過ぎる」が故に体験を語ることの困難さを持つ世代がある。同じ時代を生きた著者は、自己の作品の普遍性ではなく、その同時代性(一回性)を認め肯定する。それはひいては「古典の一回性」へと、連なるのではないだろうか。
うーん、うまく言葉にできないな。
それと小見出し「二つの中心を揺れ動く」(p132~)で言われている「楕円」というキーワード。昨今ちょこちょこ見かけるようになってきた。よい言葉である。
印象的だった箇所を2点ほど。
一つ目
視覚がないから死角がない。~自分の立ち位置にとらわれない、俯瞰的で抽象的なとらえ方です。(p74)
「目の見える人」の自明の前提としてある、背面情報に対する正面情報の圧倒的過多、自分の前面に広がる視覚範囲の情報を、知覚可能な情報の大半として認識すること。この「目の見える人特有のクセ」をもっと馴らし、俯瞰的で(視覚特有の2次元的世界像ではなく)3次元的な世界認識が「目の見えない人」の特徴である。
だからこそブラインドサッカーにおいては、「自分の身体が向いている前方と同じように、背中方向にいる後ろの選手の動きもよく分か」り、「後ろへのヒールパスが増えたりする。」(p147)
後ろに対する前の優位性の相対化。
二つ目
「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ。と述べました。~「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。(p211)
それが差別のない中立的な表現という意味での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。(p204)
社会の多くの機能が「障害者向け」に作られていないことによって生じる「障害」は、障害者の属人的な機能欠如ではなく社会の機能欠如である。2011年に日本で公布された改正障害者基本法にはそう宣言されている。
であるならば、「健常者」が自己の障害者への視線の定まらない不安定さを恐れるあまり、ポリコレという大義名分に飛びついて「武装」してしまうのはただの現実逃避であって、そうした「健常者」や社会の障害者っぷりを逆照射させるためにも「障害者」という表記を維持すべきだ、と(こんな口調ではないけれど)作者は述べている。
とても賛成です。
あとこの「表記問題」は、「インディアンの呼称問題」を思い起こさせる。
〈アメリカ人〉「インディアン」という呼び名はアメリカ大陸をインドだと勘違いした我々のミスなので、これからはあなたがたを「ネイティブ・アメリカン」と呼びます!
〈インディアン〉勝手に名付けられ、数百年も呼ばれ続けてやっと馴染んできたのに、そっちの都合で勝手に変えるな!どこまで身勝手なんだ!
こんなのを昔どこかで読んだ気がする。
「問わず語り」の章が強く印象に残っている。作者のホームページにも、その章は一つの挑戦だったと書かれている。