- 作者: ジルドゥルーズ,Gilles Deleuze,財津理
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/10/01
- メディア: 文庫
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漱石の疼痛、カントの激痛―「頭痛・肩凝り・歯痛」列伝 (講談社現代新書)
- 作者: 横田敏勝
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2000/11/01
- メディア: 新書
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立ち寄った古本市の「漱石コーナー」で佇む本書の場違いオーラに引き寄せられ、ついつい買ってしまった。日々の何気ない動作に「痛み」が潜んでいることに脅えさせられる一書である。
社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
- 作者: ジョナサン・ハイト,高橋洋
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2014/04/24
- メディア: 単行本
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社会や組織を変革する際、その変化が道徳資本にもたらす影響を考慮に入れなければ、やがてさまざまな問題が生じるのは明らかだ。これこそまさに、リベラルの抱える根本的な盲点だと私は考えている。これは、リベラルの改革がたびたび裏目に出る理由を、さらには共産主義者の革命が独裁政治に陥りやすい理由を説明する。また、思うにそれは、自由と機会均等の実現に大きな役割を果たしてきたリベラリズムが、統治の哲学としては不十分な理由を説明する。つまりリベラリズムは、ときに行き過ぎてあまりにも性急に多くのものごとを変えようとし、気づかぬうちに道徳資本の蓄えを食いつぶしてしまうのだ。それに対し、保守主義者は道徳資本の維持には長けているが、ある種の犠牲者の存在に気づかず、大企業や権力者による搾取に歯止めをかけようとしない。また、制度は時の経過につれて更新する必要があることに気づかない場合が多い。(pp450−451)
ネアンデルタール人の脳ではみられなかったような「横断的」な結合組織が~現生人類のもつ新しいタイプの脳では、違う領域の知識を横につないでいく新しい通路がつくられ、それをそれまで見たこともなかった「流動的知性」が、高速度で流れ出したのです。(p57)
超越を生む要因とみなされる「流動的知性」、それは「異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能」にし、「隠喩的」思考と「換喩的」思考の2軸を持つ「比喩的」な思考を実現させた(p57)。
「比喩的」な思考の能力が得られますと、言葉で表現している世界と現実とが、かならずしも一致しなくてもいいようになり~言葉をしゃべり、歌を歌い、楽器を演奏し、神話によって最初の哲学を開始し、複雑な社会組織をつくりだすことが、いちどきに可能になっていったわけです。(p58)
ただ、そのような「流動的知性」の本質をつかむことは非常に困難な営みとなる。「自分の内部に流れ込んできてはまた外に流れ去っていく「流動するもの」」は、「部分的にしか理解」できない(p61)。
かろうじて直観でとらえられた「流動するもの」は、「イメージのもつ具体性がはぎとられて、抽象的な力だけがダイナミックに活動するようになり~、どんな「構造」でもとりおさえることができ」ず、「「構造」を突き抜けていってしまう」ものとして、私たちの内部から「内在的超越」として出現してくる。(p62)
さらにはスピリット(精霊、多神教)と、スピリットの上位者である「高神」といった対称性のある神々から、非対称的(絶対的、唯一的)な「GOD(一神教における神)」が誕生してくることになる。
第1章 生命
ダーウィン進化論から始まる生物学や、病因を特定し除去する西洋型医療の発展が、人々の「健康」という概念を大きく変えてきたのが現代である
臨床医学の真の目的は、眼のまえの個人を、その病気の苦悩から解放することではない。社会の「人口」という全体にとっての公益を実現することである。その病気によって死ぬ病人を統計上において減らすことである。病気の統計的特性を知り、その根本的原因をつきとめて、その社会に病気が生じないようにすること、社会の諸身体の生命活動の総量を増加させることである。(p89)
「眼のまえの個人を」救うことよりも「「人口」という全体にとっての公益」を優先することが現代における治療である。統計的データを活用した、年齢性別趣味嗜好成育歴等々のシチュエーションに適した処方箋を与える時の医療者の眼は、決して患者個人に向けられてはいない。患者の背後に見える統計データの各パラメーターが交差するポイントに向けてのみ治療が行われているのである。
ではその統計データは適切なのだろうかといえばそうは言えないのが現状である。
結局、机上の判断に影響を与えるのは、統計の取りやすさなのである。医療の現場ばかりでなく、多様な社会問題の現場においてだれが死に近いかを、あるいはだれを隔離すべきかを、だれを強制すべきかを教えてくれるのは、取りやすい統計である。統計が取りやすいか否かが、諸個人の選択や、さらには正義に関わってくるとは、何とも不条理なことである。(pp118-119)
現状の技術水準で測定可能な、「喫煙・飲酒の有無」、「栄養摂取の適正性」から「遺伝的要因」に至るまで、現代のいわゆる「健康」に寄与すると言われている諸パラメーターを適正にシフトチェンジするという「机上の判断」を、ほとんど疑いなく患者も医療者も受け入れているという現状が、より人々を狭量にし異物や他者を排除する傾向に追い込んでいるのではないだろうか。
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)
- 作者: スティーブン・ピンカー,山下篤子
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2004/08/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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人は「遺体」から目を背けることができない。家族だろうが赤の他人だろうが、どんなに腐乱し損傷した「遺体」であろうが、今私のそばにいるかつて生きていたであろうその人を弔わねばならないという気持ちを、決して抑えることはできない。
そして、故人を弔うためには多くの行為を必要とする。医療的な診断、行政への届け出、親族への周知、葬儀や火葬の手続き。いくら現代が科学主義/エビデンス主義へと加速度的に傾こうとも、テクノロジーの進歩はいつまでたっても「遺体」の適切な取り扱い方を示してくれていない。
そんな私たちが「遺体」に対してできることとはなんだろうか?
震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めはじめて進むものなのだ。(p262)
どんな状況であろうと、「遺体」と向き合う時がいつかはやってくる。どうような視線を向け、どんな言葉を語りかけ、どうやって手を差し伸べたら良いのか、「遺体」は決して応えてくれることはない。ただ「決して応えない」ことを通してのみ、生き延びた私たちに「遺体」は何かを投げかけ続ける。それは社会や環境やテクノロジーがどんなに変化してもおそらく無くなることはないだろう。