「レンマ学 第4回 脳によらない知性」 中沢新一 群像2018年5月号 走り書き

 

群像 2018年 05 月号 [雑誌]

群像 2018年 05 月号 [雑誌]

 


今回は『華厳経』以後のレンマ的知性の探求と、現代の脳科学研究において判明した人間の脳組織由来の思考法との接続が試みられる


短いまとめ

・『華厳五教章』:レンマ的知性が働く法界の構造を分析
・『大乗起信論』;レンマ的な法界と、様々な煩悩が渦巻く現実の人間的知性(ロゴス的知性)は現実世界でどのような関係にあるのかを探求
・その上で現代の脳科学的知見とつなげることで、脳機能上の特性と、その特性を成り立たしめている法界(レンマ的知性)が人間の「心」として現れる様を考察する

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長いまとめ


まず、『華厳経』後のレンマ的知性の探求として、

①『華厳五教章』を始めとした中国華厳宗の諸著作
②『大乗起信論

が挙げられる。

 

①『華厳五教章』及び中国華厳宗
→「法界の内部に働いている構造(体性)力(力用)を律している原理を、「相即相入」の過程として精密に定義した」(p235)

 

構造(体性):法界における「無限の楼閣」を内包した全体性

法界にあるあらゆる事物が、体性の面から見れば、無自性(自分の本質というものを持たない)空に根を下ろし、そこから生起して個体性をもって、他の事物と縁起によってつながりあう。(p234)

 

力(力用):相即相入、一即多、多即一と表される流動的な運動性

縁起する諸存在は〜個体性を超えて相互に力の出入(力用)も起こるのである(p234)

 

 

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 以上の前提をふまえ、 

『華厳五教章』における法界の特徴

・空間と時間も一つにつながって、時空連続をなしている
・主体と客体も相即相入しあっている
・法界の諸法(諸存在※引用者注)は重々無尽に相即相入しあって、完全に融け合って(円融)自在につながりあっている
・法界のすべての事物(法)は、小の中に大がすっぽり収まり、一の中に多がやすやすと容れられる
・あらゆる存在(法)が顕在部と潜在部が一体となって、法界縁起をおこなっている
(以上p235)


このような特徴はまさしく粘菌において観察される事柄である。

 

多核単細胞生物である粘菌の「体」は、全体が縁起一体で動いている。それぞれの核の周りに相即する類似のエネルギー物質を運搬する液体が流動している。こうした管が全身にゆきわたっているおかげで、エネルギーの「力用」に関して、一細胞に形成されたエネルギー物質は多数の細胞に流れ込み、多数の細胞から一細胞への搬入が起こる。(p236)

 

また粘菌は、湿気の多い環境では動物的形態が顕在化し(植物的形態が潜在化し)、乾燥した過酷な環境においては植物的形態が顕在化する(動物的形態が潜在化する)。


粘菌の脅威は〜象徴でも比喩でもなく、法界縁起がそのまま顕在化しているのである。(p237)

 

 


②『大乗起信論
→法界で働くレンマ的知性と、時間秩序に従って並べ立てるロゴス的知性が
現実の人間の心でどのような関係のもと働いているのかを探求した

 

華厳経』では、法界のあらゆる事物(諸法)は相即相入することによって自ずから時間を消し去ると説かれるが、『大乗起信論』の関心事はむしろ、時間性のない心真如のうちに突然時間が入り込むことによって、心が時間存在に変容し、絶え間ない生滅変化を経験するようになるという事態のほうに向けられている。(p238)


まず『大乗起信論』において人間の心は、
真如(心真如)
滅心(生滅心)
とに分けられる。

 

真如(心真如):分別がなく時間によって変化しない「純粋レンマ的知性」

真如は「ありのままの心」である。分別するロゴスの働きの及ばない場所で、時間によって変化することのない永遠の相においてある心という意味であるから、レンマ学の言い方で言えば法界縁起する「純粋レンマ的知性」のことをさしている(p238)


滅心(生滅心):時間によって変化するロゴス的知性

時間の変化にしたがって移ろい変化していく心で、差別相をもって多義的に散乱していく。(p238)


「現実の人間(衆生)の心」は世界を認識する時、分別や差別を持ち、嫉妬や怒りといった感情、煩悩によって滅心が生まれてしまう。(p237)


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つまり、人間の心の構造は、「心真如と生滅心とが一体になることによって」相互に影響し合い、「心的現象を生み出している」。(p239)

 

ほんらい相即相入して全体運動をなしている法界の諸存在(諸法)が、時間の線形秩序にしたがって「並べられていく」と、〜無分別の心真如が分別する生滅心に突如として変化を起こすが、二つの心は「和合」して、心的現象の全領域を生み出す。(p239)

 

この「心的現象の全領域」を、大乗仏教唯識論の言葉を借りれば「アーラヤ識」と言うこともできる。
アーラヤ識の形成には、「時間性の介入による諸法の並べ立てが決定的な働きをするのである。」(p239)

そのようなアーラヤ識の形成を『大乗起信論』では、「よく花の香りが衣服に移る様子に喩えられる」、「薫習」でという概念で説明される。

 

縁起の理法によって動き変化する法界には、感覚器官につながっている生滅心からの時間化された情報が送り込まれ、薫習による変換(法界構造から時間性ロゴスへ)がおこなわれる。しかし薫習は双方向的で、法界の側からの薫習が生滅心にも加えられる。そしてこの双方向の薫習を経たなにものかを、「心」として人間は体験するのである。(p240)

 


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「中枢神経系を持たない生物」である粘菌と違い人間は、「高度に発達した脳と中枢神経系を介して、世界と縁起しなくてはならない」。人間の脳におけるニューロン神経細胞)の構造からして不可避的にロゴス的知性活動を強いられることになる。電気信号をニューロンからニューロンへ順に伝達する「時間性を最大利用した」情報処理は、「ロゴス的な分別、主客の分離、愛と不愛の発生、愛的対象への忌諱」を生み出すことになる。(p241)

 

世界の出来事が時間を介して現実として顕現するまさにその瞬間に、まったく同じ場所で、レンマ的知性の宿る法界が活動している。現実世界もまた法界の部分に他ならない。その現実世界とも相即相入しながら、法界の全体運動は一瞬止むことがなく続けられる。人類の脳はそこに挿入されている極小のロゴス型観測装置にほかならない。(p242)

 

ニューロンを介した世界認識をする人間にとって現実世界はロゴス的知性に満ちている。人間のロゴス的脳組織によって薫習された法界の一部を時間軸に沿って並べて顕在化(現実化)するからである。
その時ロゴス的知性から見れば潜在化してしまった法界は、けっして無化されたわけではない。相即相入するレンマ的知性から見れば、顕在化も潜在化も共に法界の一部である。そのような二項対立が生まれることすら、法界をロゴス的知性によって切り取ることにより立ち現れるからである。
それゆえロゴス的情報処理を行う人間の脳は、法界の絶え間ない全体運動の中に投げ入れられた「極小のロゴス型観測装置」と言えるのである。