「レンマ学 第6回 レンマ的無意識(1)」 中沢新一 群像2018年7月号 走り書き

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群像 2018年 07 月号 [雑誌]

群像 2018年 07 月号 [雑誌]

 

 

後半をうまくまとめられずざっくり図式化してしまった。

 

 

短いまとめ

 

西洋心理学(ロゴス的知性)の無意識をレンマ学用語を使うことで改めて規定し→①ロゴス的無意識

さらにレンマ的無意識の特徴を5つ挙げ→②レンマ的無意識

ロゴス的知性では到達不可能だった領域がレンマ学の学問対象となることが宣言される。→③レンマ的心理学へ

 

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長いまとめ

 

①ロゴス的無意識

 

過去ー現在ー未来 という線形秩序(時間性)によって規定された言語=ロゴス的知性。このような知性のもと発展してきた西洋の心理学において語られる「無意識」、それは「ロゴス的知性の側から捉えられてきた心的実態の可能的描像に過ぎない」。(p304)

 

言語=ロゴス的知性により「捉えられた現実が「意識」と呼ばれ」、「意識によらない心的活動のすべてが無意識として取り出されてきた」のである。(p304)

 

 

では、「レンマ学における無意識」とはなにか?

 

その前に、そもそも、言語・意識とは何か?

 

 

(a)まず「言語」は、「「分別」をもっとも重要な働きとしている」 (p305)ことから

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「事法界」的な様態

 

(b)その「言語」が機能する前提として、事物を「分別」するには「分類」が必要であり、「分類」をするには、事物間での「同一性が見出されていなければならない」ので

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「理法界」的な様態

 

(a)(b)から、レンマ学においては「言語は、法界における「理事無碍法界」の様態を含んでいる」ことがわかる。(p305)

 

人間の言語活動における「理事無碍法界」、それは「喩の過程」が起こることと深く結びついている。

 

人類の言語ではこうして分類されたカテゴリーにさらに二次的、三次的・・・な分類が加えられ、分類されたカテゴリーの間に理法界が働くことによって、前の段階の分類では「違うもの」と分けられていた項目同士が「似ている」として結合されていく、「喩の過程」が起こるのである。(p305)

 

これこそ「法界縁起の理法そのものである「相即相入」」であり、

ロゴス的(事法界的)要素とレンマ的(理法界的)要素を含みもった、

「言語」(理事無碍法界)こそが「人類に「意識を」もたらす」のである。(p305)

 

人類の心に発生した意識が 〜以上のことからもよくわかる。言語は事法界に適合した構造を持っているから、ニューロン系による情報処理に最適な機能をもたらすことができる。しかし同時に、この言語は理事無碍法界にも開かれ〜、ロゴス的機構の内部には、たえまなくレンマ的知性の働きが無意識として侵入し、そのたびに記号論的機能は揺らいだり、客観的情報処理の進むべき道からは逸脱させられたりすることになる。つまり、人類の言語は理事無碍法界の能力に開かれているおかげで、意識には無関係な心的領域、すなわち無意識に「道を開いている」わけである。(pp305ー306)

 

「道を開いている」という表現はフロイトの「通道 Bahnung」という概念からきており、ラカンは言語活動における「喩の過程」が「通道」の実現だと考え、「そのことを「無意識は言語のように構造化されている」と表現した」。(p306)

 

 

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②レンマ的無意識

 

 『華厳教』と『大乗起信論』によって示された、一心法界としてのレンマ的無意識は以下の4つの特徴を持つ。

 

(一)「無分別知性(レンマ的知性)と分別知性(ロゴス的知性)の混成体」であるアーラヤ識、その「アーラヤ識を包摂する純粋レンマ的知性体としての「如来蔵」でも、レンマ的無意識の活動が続けられている」。(p306)

 

フロイト精神分析学における「無意識」は分別知性(ロゴス的知性)とともに混成体を成す無分別知性(レンマ的知性)のことを指しているが、「それよりもさらに大きな無意識が、心=法界の全域で活動している」。(p306)

 

フロイト的無意識と区別するために、言語に捕獲されていないこの真正な無意識のことを「レンマ的無意識」と呼ぶことにする(p307)

 

(二)フロイトラカン精神分析学や構造主義が捉えていた無意識は「言語構造を介して時間性の侵入が果たされている」、「アーラヤ識に組み込まれたレンマ的知性」であるからこそ、「無意識は言語のように構造化されている」と言うことができた。(p307)

 

(三)「レンマ的無意識は一心法界のすべてを覆」い、「心の表層にも中層にも深層にも偏在している」(p307)

 

「ロゴス的知性の生産物」である「発話の中を、思考の中を、造型されたイメージの中を、まるで「かすめ通る」ようにして」レンマ的無意識は姿をあらわす。だからといって、その「不規則な足取りを追って、そこから一つの因果性の物語を織り上げる分析の手段は、真正の無意識にたいしては使用することができない」。(pp307-308)

 

(四)

夢の語法のうちに、レンマ的無意識は深い痕跡を残す。夢はイメージの圧縮と置き換えをおこなう。このイメージの圧縮と置き換えに深く関与しているのが、法界縁起を貫いている相即相入の原理である(p308)

 

このような相即相入が言語の統辞法に侵入すると、「喩的構造」(メタファーとメトミニー)がつくられ、そのような言語体によって「時の飛躍の光景を再現するために、最初の芸術である詩が誕生した」のである、(p308)

 

ここで、フェリックス・ガタリの「機械状無意識」という概念を導入する。

 

レンマ学の用語を交えてこの概念を説明するならば、「相即によって「部品」の移動と圧縮がなされ、相入によって「部品」間での力の交通がスムーズに進行する」「まるで巨大な機械仕掛けの全域で続けられていく」ような状態をさし、この場合の「部品」とは時間軸上にあらわれる事法界的な事物であり、その「部品」のそれぞれが時間を逆行したり飛躍したりしながら相即相入し合っているレンマ的無意識と強く結びあっている。

 

(五)

純粋レンマ的知性の働きである理法界の様態は~抽象化の能力をあらわす。~事法界にあらわれる差別と分別の相に「流れ込んで」、差別を平等化し、分別を無分別化する。それはあたかもなにか知的な流動体が分別壁を自由に(無碍に)乗り越えて、それまで分別によって分離されていた領域やカテゴリーをひとつにつないでいくようである。

~華厳教ではこの流動化が自由(無碍)の本質であると考えている。(p309)

 

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③レンマ的心理学へ

 

「ロゴス支配的な文明の中で生み出された、最高レベルに属する人間理解」(p314)であるフロイト精神分析学における「快楽原則」をレンマ学の見地から検討する。

 

以下の図は(フロイト的)無意識と(フロイト的)意識を二軸に、それぞれにロゴス・レンマの用語を当てはめてみたものである。

 

        (事法界)

      ↗ (ロゴス)↘

一次過程】⇄⇄通道⇄⇄【二次過程

   |   ↖   (レンマ)↙    |

   |       (理法界)        |

   |            |

   |            | 

・理事無碍法界       ・事法界

・(フロイト的)無意識     ・(フロイト的)意識

・快楽原則         ・現実原則

 

 

「もの das Ding」から「快楽」をもたらす「快楽原則」

         ☟

その運動全体がレンマ的無意識(理法界及び事々無碍法界)であり、

ロゴス的意識(事法界及び理事無碍法界)からは不可視の領域となる。

 

ロゴス的意識で構築される「文化」は「快楽原則」を抑制するが、

大乗仏教と歩を同じくフロイトは、「快楽原則」が「快楽」と「善(幸福)」を作りだすと考えたため、『文化への不満』へとつながることになる。

 

これにたいして大乗仏教はレンマ的無意識をとおして、マクロコスモス(神々と宗教の領域)とミクロコスモス(人間心理の領域)の構造を規定してきた人類文化の限界に挑戦しようとしたのである。~大乗仏教は、「文化への不満」へとたどり着いていくフロイトの思想が、根源的な地点で乗り越え可能であることを示唆している。レンマ学の立場に立つとき、心理学はいまだに未踏破の広大な領域を放置していることが、はっきりと見えてくる。(p315)