「レンマ学 第7回 レンマ的無意識(2)」 中沢新一 群像2018年8月号 走り書き

 

 

群像 2018年 08 月号 [雑誌]

群像 2018年 08 月号 [雑誌]

 

 

①「逃れなければならない場所」としての「無意識」

②主体なき身体

③分裂的無意識

④曖昧な対称性無意識

⑤レンマ的心理学=対称性+非対称性

 

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①「逃れなければならない場所」としての「無意識」

 

 統合失調症や夢に見出せる無意識を研究した西欧心理学に対して、大乗仏教では瞑想によって「分別的思考を停止させ」レンマ的な心的構造/無意識を観察した。(p269)

 

レンマ学はこの二つの無意識を一つの法界(一心法界)のうちに統一して、心理学に新たな次元を開こうとするものである(同)

 

そして、改めてレンマ学における人間の意識の発生過程が説明される。

 

純粋レンマ的知性=レンマ的無意識=如来蔵は、法界として相即相入しあう縁起の論理で満たされている。因果律や線形秩序といったロゴス的なものが現れることのないレンマ的無意識に「転形」を引き起こすのは、「時間性の侵入」である。

 

時間性が入り込むとき、〜如来蔵はアーラヤ識への転形を起こすのである。それまで無分別として活動していた知性が、自分の内部に分別的知性の働きを抱え込むようになるわけである。(p270)

 

アーラヤ識とは「レンマ的知性とロゴス的知性の混合体」(同)であり、理事無碍法界でありフロイト的無意識に相当する。

 

法界としての心の活動のうちで、意識の占める領域は意外なほどに小さい。意識は人類がいま用いている言語の構造にしたがって、アーラヤ識に生まれてくる。しかしこのアーラヤ識そのものは、法界に内蔵された「理事無碍法界」の様態がつくりだす法界の一部分にすぎない。さらにそのアーラヤ識の一部分が、言語と意識を生み出しているのである。したがって法界としての心は、言語や意識に汲み尽くされることのない、複雑で巨大な活動体と考えられる。(p269)                                           

 

ここで一応注意したいのは、純粋レンマ的知性から分離した人間意識におけるロゴス的知性はレンマ的知性でもあるということである。アーラヤ識はあくまで「混合体」でありそこには法界を満たすレンマ的知性が確かにある。「純粋レンマ的知性から分かれて純粋ロゴス的知性が現れる」という発想そのものがロゴス的偏りで構成された認識なのである。

 

混合体としての特性をもっともよく表現し、かつ現実に働かせているのが、言語にほかならない。〜言語は事物を線形的に並べて秩序づける統辞法(シンタックス)というロゴス機能と、メタファーやメトニミーの〜レンマ的機能との、バイロジック(複理論)的な組み合わせとしてできている。(p270)

 

人間の意識は、時間性の侵入によって転形したロゴス的知性が常にその発生元であるレンマ的知性に影響を受けていることになり、「(後期ウィトゲンシュタインの語ったような)限界を抱えることになる」。(p271)

アーラヤ識におけるレンマ的知性の働き(フロイト的無意識)によって限界づけられたロゴス的知性を「補うべく人間はAIを発達させてきた」。現代のAIにおいて実現されている知性はまさしく「ロゴス的知性を単独の状態で機能させ」ているからである。盤面のように区切られた有限のゲームの内で最も効率的な一手を選択する、これぞレンマ的知性を排除した「単独の状態」と言えるだろう。(同)

 

しかしそのとき、ロゴス的知性の厳格な運用〜と引き換えに、〜ロゴス的知性の母体でもあるレンマ的知性の宇宙との連絡を失っていく危険を抱え込む〜。そのような事態は回避しなければならない、とレンマ学は考える。そのためには一心法界における無意識とロゴス的知性の占める場所を、縁起の理法=レンマ的知性との関わりにおいて正確に定位しておかなけれならない。(同)

 

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②主体なき身体

 

法界としてある心には、(一)事法界(⑵)理法界(三)理事無碍法界(四)事々無碍法界という4つの「様態」が見出せる。「このうち理法界と事々無碍法界がもっとも純粋レンマ的知性に近い動きを示」し、時間性が介入すると「分別と認識にかかわる事法界と理事無碍法界」が表面化する。(pp271−272)

 

 西洋の知の歴史において、「脳と中枢神経系が高度に発達」した影響が強く表面化し、ロゴス的知性こそが「知性の本質をなすものと長らく考えられていた」。そのような「「迷信」を打破」したフロイトが明らかにしたのは、人間の意識は無意識との「協働」で活動しており、「この無意識はレンマ的論理にしたがって」いるということである。(p272)

 

それゆえラカンが語った〜「無意識は言語のように構造化されている」〜をレンマ学によって言い換えれば「心理学があきらかにしてきた無意識は、理事無碍法界の様態によって活動する純粋レンマ的知性としての法界である」ということになる。このことを『大乗起信論』では唯識論の言うアーラヤ識に充てている。(同)

 

このようなアーラヤ識=フロイト的無意識を含むレンマ的無意識の特徴は「機械状、流体力学状」であるとされる。(p273)

例として機械仕掛けの人形を想像しよう。人形の内部には細かなネジや歯車が機械状に組み合わされ、一つの部品の運動が次の部品の運動へと流れるように連鎖してゆく。その総体として現れる人形の手足の動きはとても人間らしいにもかかわらず、「その動きを作り出している部品一つ一つの動きは、少しも「人間的」ではない」。(p272)

 

レンマ的無意識の活動もそれに似て、少しも人間的ではなく、機械状のクールな運動を示す。そこにはなによりも「主体」がない。(同)

 

「機械状」において重要なのは、この「主体」がない点にある。

 

「インドラの網」に喩えられる法界中の諸事物は、相互に〜自在(無碍)に影響を及ぼしあっている。網の目の交差点に主体の「芽」が生起するが、〜相即相入を受けることによって、別の形態への変化を起こし、〜レンマ的無意識には「同一性」がつくられない。そのため対象世界から分離した主体というものが、存在することができないのである。(pp272−273)

 

そのためフロイト精神分析学での、無意識にたいする「強い性的な意味づけ」や「オイディプス化」といった解釈が無効となる。

そしてフロイトラカン的無意識に依拠することなく、その「外側」を指向したドゥルーズ/ガタリが、「無意識には主体がない」「欲望は無意識において機械状の運動を続行している」と言うとき、「強固な同一性を備えた主体をつくりだそうとする西欧的思考の伝統を食い破って、その外に出ていこうとしていた」ように見えるのである。(p274)

 

 

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③分裂的無意識

 

フェリックス・ガタリ統合失調症分裂病)の症例から無意識を考察する方法論を「分裂分析」と名付けた。それにならい「統合失調症があらわにする無意識を「分裂的無意識」と呼ぶ」と、それは大乗仏教における「法界」と直結しながら運動している。分裂的無意識を治療対象とした西欧心理学と違いレンマ学は、「むしろ心の本性を探る貴重な存在」として見るのである。(p275)

 

私たちは統合失調症を通じて、生のままの状態にある無意識が、人間の心の奥から浮上してくる光景に立ち会うことになる。〜〜それは必ずしも崩壊であるのではなく、まだ人類が理解できていない無意識への突破口を示しているのである。(p276)

 

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④曖昧な対称性無意識

 

次にチリ出身の精神医学者イグナチオ・マテ・ブランコが紹介される。

ガタリの機械状無意識の概念と並んで、われわれのレンマ学に多くの重要な知見をもたらしてくれる」のは、彼の「対称性無意識」という概念である。(p280)

 

数学や自然科学といった学問領野由来の「対称性」という言葉は、「群論」を創造したガロアは「曖昧性」とも呼んでいた。

これは例えば、

𝒙²-1=(𝒙+1)(𝒙−1)=0

という数式において真ん中の+1と−1を入れ替えても等式が成り立つ、という場合にそう呼ばれていた。

これを言語で再現しようとすると、

「ローズはメアリーの母親であるRose is the mother of Mary」

という文が

「メアリーはローズの母親であるMary is the mother of Rose」

となり、これぞ「『不思議の国のアリス』の思考法であるが、これこそ無意識の住みついている領域の思考」、つまりは「対称性無意識」の思考である、とマテ・ブランコは考えたのである。(p279)

 

日常生活を律しているのは「非対称性」の思考である〜分別の機構(ロゴス的知性の機能)から生じる。私たちはすでに人間の分別の機構がニューロンのおこなう「分類」の過程から出発して、言語の統辞的構造が可能にする意識的思考までを〜見てきた(p278)

 

対称性が働きだすと、ロゴス的知性のつくりだしている「全秩序total order」の構造は壊れてしまう。(p279)

 

「過去・現在・未来という時間の線形秩序」が壊れることで、「時間の中で起こる空間的な場所の置き換え」である「運動そのもの」も失われ、「「部分」と「全体」が同等に扱われる」ことで数字の7が数字の「部分」でありながら「全体」=無限でもありえてしまう。「統合失調症ではこのような〜認識が、生のあらゆる側面に適用されていくことになる」。(p279,280)

 

マテ・ブランコが「対称性」として取り出した〜これらの特徴を見ると、その背後にレンマ的知性としての法界が活動していることをはっきりと示している。(p280)

 

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⑤レンマ的心理学=対称性+非対称性

 

大乗起信論』によって分析された「無意識」=アーラヤ識は「レンマ的知性とロゴス的知性の混合体」としてある。

マテ・ブランコも、「本来の無意識である「対称性」と、ロゴス的機能を備えた言語的・意識的な「非対称性」」との「二重論理ないし複論理(バイロジック)」であるとした(p280)

このバイロジックのバランスが「対称性」に傾いてしまった状態に「統合失調症の世界認識が発生する」ことになるのである。(p281)

 

レンマ学的心理学はその全過程を、西欧的心理学とは逆の方向から探求するのだと言えよう。レンマ的心理学が生成過程から現実を観察する「胎生学」的な科学であるとすると、西欧的心理学は死や解体を頂点として現実を観察する「臨床の医学」(ミッシェル・フーコー)である。しかし二つの心理学はたがいに反対の方向から〜普遍的な人間性の探求という同じテーマに向かって、たがいを豊かにする相互補完的な関係を持つことになるであろう。(p282)