官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則
- 作者: デヴィッド・グレーバー,酒井 隆史
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2017/12/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
本書の、そして著者の始点となる疑問、それは〈私〉である。
「(過去や未来を含めて)たくさんの意識のある生き物が存在するのに、なぜ現実にはこの一つだけしか感じられないのか?(なぜ一つだけは現実に感じられるやつが存在しているのか?)」(第1章)
私は「私」という概念を使って自己を指し示す。またあなたも「私」という概念を使ってあなた自身を指し示している。この同じ「私」を使う(発話する)前提として必要とされるのは、またその「私」という概念を下支えする(あなたと混同することのないための)根拠は、〈私〉である。この〈私〉は本書ではこう表現されている。
現在の世界には現実に一人だけ他人たちとはまったく違う種類の人間が存在している。現実に見えたり聞こえたり、痛かったり痒かったり、何かを覚えていたり何かを欲したりしている人間である。人類史は相当に長いが、つい最近まで、そんな人間はいなかったし、もう少ししたらまたいなくなるであろう。(第2章)
そう、〈私〉とは事実である。事実として現在に存在してしまっているこの〈私〉という、代替不可能で、他との比較を絶したこの「一つ」。そのことに著者は「実存」という概念を当てる。ここでいう実存とは「現に今存在してしまっていること」を意味し、対立的に使われる「本質」(こちらは可能的な世界において見いだせる意味内容)に先立つ〈私〉の存在の容態として使用される。
アンチ・エビデンスー九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
「非定型的な判断を限りなく排除〜これは、反−判断である」(p165,166)
本来は手段であった自然科学的なエビデンシャリズムがあらゆる領域で目的以上に目的的に欲望される現代を批判する。
『純粋理性批判』「超越論的判断力一般について」(B171~175)においてカントは、内容を捨象し形式のみを重視する一般論理学は「判断力にとってのいかなる準則をも全然含んでおらず」、一般論理学の規則に執着する知識人は「容易に過失をおかす」と批判している。
絶えずエビデンスを提出する(という一般論理学が蔓延した)現代は、知識人だけに留まらないあらゆる人々が「容易に過失をおか」しうる状況であり、一家(=独身=一人)に一台「あんよ車」が必要な社会とも言えるかもしれない。
力の放課後ープロレス試論
プロレスが孕む「贅沢」。
多くの競技、資本家のふるまい、人生プランにおいて効率性が重視される現代、プロレスはそんな私達が忘れかけている「結果のすべてではなさ」を思い出させてくれる。
非効率的な振る舞いをすることの贅沢さは、試合に勝つということや「結果=利益が全てであるかのように恫喝するリアリティから我々の「日常」を解き放ってくれる、それがすべてではない、という夢なのである」。
勝利は単独者にのみ現れる。レースに勝利するのも、新記録を打ち立てるのも、ビジネスで勝ち上がるのも、多くの敗者の上に立つ単独者にのみ成り立っている。
そうではない自分、そうならなかったかもしれない可能的な自己。子供の時、ふと見つけた高い壁を乗り越え未知の庭先へとジャンプする、「ぎりぎりの自己破壊を生き延びること」。
向こう側の秘密の庭にたやすく降り立った彼こそが、プロレスラーに他ならない(それは僕のありえたかもしれない姿、分身だ)。そして秘密の庭、それは力の奔流に流されるがままになるという自己破壊のプロセスを首尾よく通過して、生きて着地できた場所である。 (p286)
プロレスのリングとは、ひとつの秘密の庭から別の庭へと飛び越え続けることが起こっているような場所だ。つまりそこは、(合理的根拠のない無邪気な自信に支えられた)自己破壊の多彩なヴァリエーションを花咲かせる舞台なのである。(同上)
クルアーンを、ムスリムの世界観を知るための一テクストとしてではなく、イスラーム教の生きた宗教体系の中心に位置するものとして認識して初めて、今なお、二〇億のムスリムたちがクルアーンに書かれた一字一句を真実と信じ、その教えを社会に実現しようとしていることの理由が見えてくるだろう。(p 34)
音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)
- 作者: 小方厚
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/09/21
- メディア: 新書
- 購入: 16人 クリック: 109回
- この商品を含むブログ (56件) を見る
漠然と平均律は昔から(それこそピュタゴラスの時代から)あるものばかりと思っていたので、種々多様な歴史的試行錯誤(音楽的&数学的)を経て現在の平均律が(そして亜種としての平均律も)生み出されたことを知ることができてとても良かった。
個人的には数学的素養のなさが本書の一部の計算パートを楽しめない要因となってしまっている点はやっぱり反省します。
本書から読み取れる興味深い仮説は、身体感覚の変調や特異状態が引き起こす様々な症状があり、それらは非常に多様な原因(変調や特異状態)と多様な結果(様々な症状)をとるということ。
そして「身体感覚の変調や特異状態」は先天的な場合もあれば後天的な場合もあり、
改善も悪化もありうるという、マラブー的「可塑性」が想起される。
タイトルや表紙の残念感は置いておいて、読みやすくかつ多くの問題提起が詰まっている。↓
「私はすでに死んでいる ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳」:アニル・アナンサスワーミー - einApfelのブログ