2019年8月に読んだ本

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 

ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く(p16)

 

自分の頭のなかにあるものと、外にあるものの境界はシームレスでなければならない。私たちの知性は必然的に、自らの脳に入っている情報と、外部環境に存在する情報とを連続体として扱うような設計になっている。人間はときとして自分がどれだけモノを知らないかを過小評価するが、それでも全体として驚くほどうまくやっている。それができるのは進化プロセスのもたらした最高の結果の一つと言える(p24)

 

知的であるというのは要するに、五感から入ってくる膨大なデータから本質的で抽象的な情報を抽出する能力があるということだ。高度な大きい脳を持つ動物は、単に周囲の光、音、においに反応するのではなく、知覚した世界の本質的かつ抽象的属性に反応する。そのおかげで新たな状況できわめて微妙かつ複雑な共通点や差異に気づくことができ、経験したことのないような場面でも適切な行動をとることができる(p58)

 

なぜ私たちは反事実的思考をするのか。なぜこれほど自然に反事実的世界について推論し、物語をつむぐのか。おそらくその主な理由は、別の行動シナリオを検討するためだ。〜中略〜新しい髪型を思いつけない者は、美容院に行って斬新な髪型にしてもらうことはできない〜。新たな権利に関する法案、あるいは新しい掃除機を思い描くことができない者も、それを手に入れることはできないだろう。反事実的思考をする能力は、特別な行動と当たり前の行動のどちらも可能にする(p78)

 

熟慮はあなたを他者と結びつける。集団は一緒に直感を生み出すことはできないが、ともに熟慮することはできる。〜コミュニティとともに熟慮することで、直観的因果モデルに内在する弱点や誤りを克服できることを見ていく。そうすることで、私たちは非常に強力な社会的知性を醸成することができる(p94,95)

 

ここから学ぶべき主な教訓は、知性を脳の中でひたすら抽象的計算に従事する情報処理装置と見るべきではない、ということだ。脳と身体、そして外部環境は強調しながら記憶し、推論し、意思決定を下すのだ。〜中略〜言葉を換えれば、知性は脳の中にあるのではない。むしろ脳が知性の一部なのだ。知性は情報を処理するために、脳も使えば他のものも使う(p121)

 

知性は、個人がたった一人で問題の解決に取り組むという環境のなかで進化してきたのではない。集団的協業という背景の下で進化してきたのであり、私たちの思考は他者のそれと相互にかかわりながら、相互依存的に進化してきたのだ(p126)

 

・人々が持つ「科学に対する意識」や心情は、「他の信念や共有された文化的価値観、アイデンティティ」と強く結びついている。そのため、文化やアイデンティティと一致しない科学や信念を選ぶことは「コミュニティと決別すること、信頼する者や愛する者に背くこと」、そして「自らのアイデンティティを揺るがすことに等しい」のである。(p176)

 

こうした視点に立てば、遺伝子組み換え技術やワクチン、進化論、あるいは地球温暖化について 〜中略〜 文化がわれわれに及ぼす影響力は、啓蒙の努力によって覆せるものではない(p176)

 

 

 

あたらしい狂気の歴史  -精神病理の哲学-

あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-

 

 

第1章 精神衛生の体制の精神史ー一九六九年をめぐって

 

・1965年の精神衛生法改正は、「現在にいたる精神衛生体制の枠組み」の基盤となっており(p29)、その改正過程の審議においては、

国家が責を負うのは、犯罪傾向のあると目される精神障害者の収容・治療・指導だけであって、精神疾患一般の収容・治療・指導ではない。ところが、精神衛生審議会の側は、社会防衛を梃子にして医療化の拡大を狙っている(p33)

 

一方で国家は社会防衛の観点からしても精神医療の拡大に対して謙抑的であり、他方で精神医学界は社会防衛の名目の下で精神医療の拡大に邁進するという構図こそが、それ以後の歴史を動かしていくのである(p33)

 

 

・「精神・心理系の学会の歴史において画期をなし」たと言われる1969年、「金沢学会」とも呼ばれる第六十六回日本精神神経学会での討論では、「精神科医療」の「荒廃」が議論の基調をなしていた。(p41)

 

「社会防衛」や「労働不能と見なされる精神病者をして労働可能な者にする」という目的を果たそうとする政府や独占資本に対し、精神科医は「「本来」の治療的側面」を、「本当の精神医療を強化し精神病者を治療しなければならない」という面を打ち出そうとする。(p43)

 

しかし、その治療の目指す先が、入院患者が「病院外で暮らしていける者」となり、「社会生活を送れる者」になり、「労働不能」な者が「労働可能」な者に、「治療」されることであるならば、それは政府や独占資本の目的に接近し、「社会保安的な役割を果たすことになってしまう」(p43)。

「本当」の医療化は「本当」に成功するなら、政府と独占資本と社会保安に貢献するのである。とするなら「本当」の医療化の要求は、「本当」は政府と独占資本も認めて然るべきであるという語り方へも傾いていく。そして、現実にも、精神衛生法改正の〈精神〉からしてそれは体制的に認められていく。(p43)

 

政府や独占資本が推し進める「偽の精神医療」や「社会復帰・治癒」と、精神科医が提唱しようとする「真の精神医療」や「「本当」の社会復帰・治癒」は果たして区別し得るのだろうか。そもそもこのような「袋小路めいたものを生み出す議論のその前提は正しいの」だろうか?(p43)

 

 

・「精神病院数のピークは、社会防衛体制が批判され学会が改革され人権擁護が進められたはずの一九九〇年代初頭に」やって来る(p54)

ここまでの検討から少なくとも言いうることは、戦後復興期の病院化と施設化を新たな段階へ押し上げる〈精神〉をもたらしたのは、一九六九年の学会改革であるということである。そして、その〈精神〉は、「反」や「脱」であったどころか、まさに精神衛生体制の枠内のものであった(p55)

 

 

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アウグスティヌス (Century Books―人と思想)

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アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

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