『「差別はいけない」とみんないうけれど。』メモ

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

まえがき


・本来、反差別的行動は被差別者によるアイデンティティ・ポリティクスとして存在していた

・近年は被差別者の周囲にいる人たち(≒マジョリティ or エスタブリッシュメント)による反差別的行動や言説が活発化している

・「アイディンティティ」から「シチズンシップ」への転換 

  アイディンティティ・ポリティクス: 差別者と被差別者に分ける
 →意図的に差別をしていない人も、マジョリティであるがゆえに「差別者」になる可能性がある

 シチズンシップの論理: 自己が「差別者」である可能性を吟味せずに「非当事者を ふくめたみんなが差別を批判できる状況をつくった」(p16)

 →誰もが「市民」になることができ、

「市民」であれば、だれもが差別を批判できる。これがシチズンシップの論理である(p14)

 

カール・シュミットを援用すると、アイデンティティは民主主義、シチズンシップは自由主義という特徴を持つ。

 民主主義:(権力者から)平等に扱われる
 →同一性、同質性、集団性

 自由主義:(権力者から)自由に行動できる
 →言論の自由三権分立、主体性を持った市民、個人

 

・移民排斥運動や特定の人種・出自に向けられる排外主義は、「実はアイディンティティ・ポリティクスをおこなっている」。(p22)
→マイノリティこそがマジョリティを差別している、としばしば主張される

EU(自由主義) vs 加盟国(民主主義)(p22〜24)
→緊縮財政(EUによる自由主義経済) vs 反緊縮運動(加盟国による経済的格差の是正)
→難民受け入れ(EUによる人権思想) vs 排外主義的ポピュリズム政党の躍進(加盟国 による、難民を受け入れることで民主主義の「同質性」が「毀損」されることに 対する危機感の表面化)

 


第五章 合理的な差別と統治功利主義

 

しかし、繰り返すが、問題は、差別はいけないという考えが一般化し、マイノリティが被ってきたさまざまな不利益が解消され、マジョリティと同じ「尊厳」を持つ「市民」として扱われるにつれて、生物学的な特性に基づく議論が影響力を拡大してきた、ということである(p229)


 差別を被ってきたマイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスによって(途上であるとはいえ)「さまざまな不利益が解消され」てきた現代において、過去にその「不利益」の源泉であった前近代的差別意識が、「根拠に基づいた」科学的な差別へと形態を変えて表出しつつある。この形態変化は、根拠の有無による何か別様な変化に見えて実は、〈意味がある無意味〉の周りをただ周っているだけなのではないだろうか。

 

意味がない無意味

意味がない無意味

 

 『意味がない無意味』(河出書房新社)において千葉は、 際限なく意味を汲み出すことができる無限に多様な現実世界の事物は、過剰なまでに意味がある〈意味のある無意味〉だと表現している。「無限に意味が過剰なもの」「無限に多義的なもの」で溢れかえっている現実世界は、「意味がわからない状態なので、要は、無意味なのである」(p11)。そして、「今日の相対主義批判者[≒反ポリコレを掲げるマジョリティ]は、科学的なエビデンスにもとづき、世界について絶対的言明を言おうとする」と指摘している(p31)。 

 

相対主義は、思考不可能な実在=〈意味がある無意味〉=xを拠り所にして作動している。〜立場次第でxをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への「狂った」ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化するのだった(p31)

 

 現代においては進化心理学的に「合理的」であるとされる、前近代の信仰的な差別意識は、人権思想や啓蒙主義によって批判され、マイノリティの「不利益が解消され」てきた。しかし、差別を解消してきたはずの「科学的なエビデンス」を、「差別が解消された現状」に新たな科学的知見とともに適用することで、「差別が解消された現状」こそが科学的根拠に基づいた有りうべき世界を歪めている差別的状況である、というマジョリティからマイノリティに対する新たな「差別」の手段を生み出しているのである(=マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクス)。

 

〈意味がある無意味〉の周りで反復される差別は、別様に見えて、同じ構造のもと駆動している。その外部として千葉が提案するのが〈意味がない無意味〉である。その概念を「差別」の現実に落とし込むとすれば、いったいどのような言葉になるだろうか。

 

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スケープゴートとは、ある集団が、集団全体の罪を特定のひとびとに背負わせ、排除することで、その集団の「同質性」(「私たちには罪はない、穢れがない」)を高める儀式である。差別者を犠牲の山羊[スケープゴート]として「炎上」させるのは、差別者という「異質性」を排除することによって、「私たちは差別者ではない、差別を許さない市民である」という「同質性」を相互に再確認し、「市民」としての結束を高めるためではないだろうか。つまり、それは、あまりに抽象的であるため「空虚」としか感じられない「市民」という理念に、アイデンティティの「同質性」をなんとかして与えようとする儀式なのである(p231)

 

 つけ加えるとすれば、「同質性」の濃度を高めるため「異質性」の濃度を薄めようとして排除が行われ、かつ、濃度の増加・減少は漸近的な変化として認識されるため、原理的にその活動には終わりがない、ということが言えるだろう。独裁的な政治体制や極端なイデオロギーによる統治の下で行われる、「あいつは裏切り者だ」という権力者への人々の密告が、実際に「裏切り者」であるかどうかの確固たる証拠を必要とすることなく「裏切り者」への制裁の根拠となってしまう状況は、その終わりのなさを最悪の形で表してしているのではないだろうか。