2019年12月に読んだ本

 

森のバロック (講談社学術文庫)

森のバロック (講談社学術文庫)

 

 

人間の感性的な領域を「心界」、事物のみの領域を「物界」とすると、「事」はその二つの領域の出会いによって生じる。

そして「事」は「物」と違って、「対象化不可能なダイナミックな運動」(p76)であり、量子論における「観測問題」の様相を呈している。

つまり、どんな物質現象でも、それが人間にとって意味をもつときには、すでに「物」ではなく、「心界」と「物界」の境界面におこる「事」として現象しているために、決定不能の事態に陥ってしまうのだ。量子論は、パラドックスにみちた「事」の世界を記述するための方法を、いまだに探求しつづけている。熊楠は量子論が生まれる三十年も前に、「事」としてつくりだされる世界の姿をとらえ、それをあきらかにするための方法を、模索しだしていた(p77)

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古代社会の「人柱」・「人身御供」といった習俗を「神話的フィクション」とする柳田国男に対して、南方熊楠はそういう「本源的暴力」は実際行われていたのであり、私たちの社会はそのような暴力的起源を持っていると、ある意味素朴に考えていた。

柳田国男レヴィ=ストロースのように、これを、不安定ながらもすでに自然(水の神)にたいして主権を確立している社会の側から説明するならば、そのとき「象徴学の主体」は、社会実体の観念の内側にいる。これにたいして、熊楠のようにそれを、その「事件」にきっかけにして、社会なるものが創出されることになった、重大な転換点をなすひとつの「リアル」なのだ、ととらえると、そう考える「象徴学の主体」は、カオスとプロセスの側に身を置くことになる。このカオスの中から、プロセスとして、社会はつくりだされてくるのである(p234,235)

 

民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始原の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始原の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始原学をめざしていた(p235)

 

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

 

 

 

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

  • 作者:小川 さやか
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/07/14
  • メディア: 新書
 

 

インフォーマル経済を体現するタンザニアの零細商人たちは、先進国における新自由主義的な「経済合理性」、分業や規模の経済性といった「合理的」手段を追求しない。彼らは自身のコネクション(友人・知人・親類)をツテに個人単位で商売を行い、共に情報や資金を融通し合い、商機に殺到したと思ったらまた別の業種に散り散りとなってゆく。

彼らの信頼とは大胆な言い方をすれば、その時々の交渉により発言する「誰も信頼しないことによる、誰にでも開かれた信頼」であり、どちらかと言えば、「反コミュニティ的」なものである(p115)


彼らが常に選び取る・規範とする姿勢は、決して一点集中による効率化ではなく、自律分散的に行動することで個々人のリスクと利益を適度に分配することである。
そして、「法的な違法性 illegal」と「道義的な違法性 illicit/合法性 licit」(p128)という区分をそのインフォーマル経済圏に当てはめれば、「法的」かどうかよりも「道義的」かどうかが重視される。

わたしは、下からのグローバル化の興味ぶかい点は、上からのグローバル化との関係をめぐる論点だけでなく、下からのグローバル化を構成する人びとのあいだにある文化的な多様性や経済的な力の不均衡が、いかに折衝されながら、アナーキーでありつつも「法的には違反しているが道義的には許せる」第三の空間を創出していくかにあると考えている(p167,168)

 

 

 新自由主義が隅々まで浸透することで起こる、交換可能性領域の際限のない拡大。それにより引き起こされるあらゆるひと・もの・ことへの数量化と数値化からの貨幣換算。西洋近代に生み出された法秩序や法規範内でのそのような展開は、その中で生きる人々の実存/承認欲求を絶えず不安に晒し続けている。

インフォーマルな経済を行うタンザニアの零細個人商たちは、新自由主義が生み出した大量の商品とテクノロジーを享受しつつも、それらを生産した主流派経済学と歩を同じくすることなく、むしろ新自由主義が無駄として切り捨ててきた数量化できない人間性の諸部分を、その経済の根幹に据えている。

加速する現代経済への、「対抗馬を考えなければいけない」という理由のみでよく急造されるスローな経済・スローな〇〇といった単純な言説にはない、正しく文化人類学的で、かつ人類史的深みを携えた経済のかたちの一例が本書には示されている。