ロシア文学関連
エクセルのフィルター機能を使って、「ある属性」の人のみを表示した世界、という説明がぱっと浮かんだ。逆に言えばその属性以外の人々を全て「以下同様」とみなすことで、従来のまま取り残された「ある属性」の人だけが異様なまでに世界の中で浮かび上がってくる。
そこは希望も絶望も勇気も愛情も贖罪も何もかもが剥ぎ取られ、ただそこに「ある」ことしか残されなかった世界。あらゆる意味が一瞬にして奪われてただ存在することしかできない人。それでも考えたり遊んだり、変わらず愛し続けたり悩み続ける人の姿が、私たちと遠いような近いような、こちらの遠近感の狂わせながらも近づいてくるような、そんなお話でした。
タンザニアから香港やってきて、天然性や中古車の輸出入などによってビジネスを行うインフォーマル経済の担い手たちと行動を共にした著者のルポルタージュ/エッセイ。
行き当たりばったりで適当な毎日を送っているように見える彼ら彼女らの行動原理は、ただ純粋な資本主義的ロジックに頼るのではなく、贈与経済や分配性を適度にミックスしながら持続可能な資本の流れと互酬性の維持を実現している。
「ついで」による適度な互助精神がコミュニティ内に共有されていることで、負い目を感じさせないような気遣いとともにセーフティネットとしての機能も果たししている。
このように、他社の「事情」に踏み込まず、メンバー相互の厳密な互酬性や義務と責任を問わず、無数に増殖するネットワーク内の人々がそれぞれの「ついで」にできることをする「開かれた互酬性」を基盤とすることで、彼らは気軽な「助けあい」を促進し、国境を越える巨大なセーフティネットをつくりあげているのである(p86,87)
あと、
カラマたちと暮らしていると、組合活動への実質的な貢献度や、特定の困難や窮地に陥ることになった「原因」をほとんど問わず、たまたまその時に香港にいた他者が陥った状況(結果)だけに応答して、可能な範囲で支援するという態度がひろく観察される(p79)
という部分を読んで、
この本で言われていたことをふと思い出した。
イスラーム圏で経験した、無茶な車の運転をするムスリムが多いことから、
結論として、ムスリムは、私たちや西欧人に比べて、「因果律」というものを信じていないのではないか、と考えるに至った。(p206)
ムスリムのさまざまな日常生活においても、(西欧社会と比べて)神の絶対性の基盤が確固としてある故、科学的根拠を理解はできても行動には伴うまでには至らない。そういう風に著者には見えると述べられていた。
チョンキンマンションの住人たちも当然ムスリムがおり、イスラーム文化圏で広く共有されている、他者の内面に踏み込まずにその行動や結果を見て判断する姿勢が、資本主義一辺倒にならない、持続可能なインフォーマル経済活動を支えているのではないか、なんて思う。
ロシア文学関連
仕事関連
人と人との出会い。それは唐突で、偶然で、思いがけない「対話」の始まりになる。もちろん「対話」は言葉を交わすだけに限られない。同じ時間を共有することが、「対話」の本質的な基礎を成している。時に、誰かを思いとどまらせ、時に、誰かを後押しをする。そんな、契機としての出会いを素朴に描き出しているストーリーが詰まった短編集です。
『medium』(講談社)でもそうだったけど、推理力等のずば抜けた「技」を持ちながら天然の性格を併せ持つことでギャップを生じさせ「可愛く」描かれる女性主人公、というキャラ像に一抹のあざとさを拭えないながらも、エンターテイメント性の高さから最後まで楽しく読んでしまった・・。
近頃メジャーな小説を読み始めたのだけれど、昨今のメジャーはこんな感じなのだろうか、と素朴な疑問。
ロシア文学関連
鮭が生まれた河を遡上するのは、河の臭いを覚えているからだと言われている。哲学的な鮭がいるとして、中世スコラ哲学、イスラーム思想、修験道、メディア論などの流れを経めぐりながら、結局、湯殿山の本質に戻ってきたのだとしたら、それは哲学的な鮭(salmo philosophicus)なのだ。私は「哲学的な鮭」だ(p90)
近代以前の伝統社会においては反復こそが社会適応のための有効な手段であった。ところが近代化が進むにつれて反復は、柔軟性の欠如として低く評価されるようになった(p87)
反復すること、常同行動をとることによって「外界からの侵害として受け取られるような刺激を何とか遮断しようとする」、そのような「防御策」として自閉症者の行動を位置付けると、現代社会は構造的な自閉症化への圧力があるように見える。(p68)
例えば映像や音楽のコンテンツが、TVによる1回限りの放映や物理的に劣化するレコード盤の時代とは違って、自ら選択した映像単体や曲単体をオンデマンドでストリーミングで再生できることが現在は当たり前となった。
TVを点けた時間に偶然放映していたその場限りの番組に遭遇したり、アルバム単位で購入することが必然であったために聞かざるを得ないそのトラックリストたちは、現代においては過去の物となりつつある。
その結果起きていることは、時間が経過することで引き起こされる不確実性の漸次的な排除ではないだろうか。
自閉症者のよくある特徴として、時間の空間化が挙げられる。時間の流れという不確実な未来を予期させるものへの不安から、時間を空間化することで、具体的には1日の予定をスケジュール表に書き出して目の前に張り出しておくことで、自閉症者の安心感を作り出すことができる場合がある。
そういった文化の自閉症化とも言えるような状況とは対称的に、現代社会が労働者に求める典型的能力としてコミュニケーションがある。これは言わば、不確実な未来の状況が到来しても周囲とコミュニケートすることで生産活動を維持する能力であるだろう。20世紀半ばに医学的に「発見」され、21世紀になりより注目が集まる「自閉症者の存在が良くも悪くも析出してしまうような状況が、世間において強まっているように思われる」。(p88)
子供である私たちは、自らが生きる世界の中で、自我と他我の区別もないまま世界と直に触れ合い始める。目の前に広がる果てしのない風景に魅せられ、背中の方でいつも見守ってくれる両親や保護者の気配を感じながら、少しずつこの世界の中に自分の痕跡を刻んでゆく。紛れもなく揺るがし難い「私」という存在。そんな確固とした事実の起因となった「両親」について考える時、人はたちまち足場を失ってしまう。なぜなら子供をつくることにはどこまでいっても偶然性に付きまとわれるからだ。子供から見た「私」という動かし難い事実と、「両親」から見た偶然性に満ちあふれた子供。一人の「私」を、自分から見るか「両親」から見るかで分かたれる、埋めようのない溝がそこにはある。
我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか(p96)
子供である私たちは、「私」を唯一無二の事実として受け止めている。しかしその根拠をどんなに求めても、出てくる答えは偶然の積み重ねでしかない。村上は父親の生前の生い立ちを辿りながら、戦争や家族や地域との関わり合いのなかで様々な偶然に左右されていたことを発見する。そしてその偶然の連なりの内に、自らが生きているということを強く意識する。
言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう(p96)
2009年のイスラエルにて、村上がエルサレム賞を受賞した際のスピーチである「卵と壁」(『雑文集』新潮文庫 所収)にも、幼い頃に自らの父親と交わした会話の場面が描かれている。
私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました。〜私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと(『雑文集』,新潮文庫,p99)
戦場で命を落とした「固有ではあるけれど、交換可能な一滴」としての兵士たち。その一滴一滴の雨水が持っていた「思い」や「歴史」を、同じ雨水である私たちは「受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」。父の祈りの姿勢から村上が引き継いだものによって、父のことを語る『猫を捨てる』は書き上げることができたのだろう。
父は亡くなり、その記憶もーそれがどんな記憶であったのか私にはわからないままにー消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです(同,p100)
ロシア文学関連
物体はつねに空間中に現象する。そのとき、物体の占める場所はその周囲を空間に取り囲まれている。その場所と周囲との境界が限界である。「限界(Grenze)」という単語は「国境」という意味をもつように、その内と外を意識させるものである。さらに言えば、その外と内の双方に否定的な意味はない。国境で接するドイツとフランスに否定的な意味がないのと同様である(p239)
「限界(Grenze)」は空間内的イメージを持つ。
人間理性・悟性はこの限界内で思考することで客観的認識を維持することができるが、ひとたびこの「限界」を超え出て考え始めるとそれは超越的であり、主観的な独断論に陥ってしまう。
だがこの主観的で独断的と批判される超越的な思考をカントが一切否定するのかと言えばそうでもない。脱線気味な話や比喩的な話も含めれば、
『純粋理性批判』では私たちとは別用の認識形式をもつ存在者であればヌーメノンを認識できるとか、
『視霊者の夢』では透視や未来予知をする当時のスピリチュアルな著名人スウェーデンボルグの話を嬉々として書き綴ったりとか、
『永遠平和のために』では平和を実現するために国境(まさにGreanze)を越えた訪問権の提唱だとか。
哲学における客観性の確立を目指したのが『純粋理性批判』の目的であって、それはカントという人間が発する哲学の一部でしかない、という認識は「限界」という概念をある時は客観性の確保のために使いある時はひょいっと飛び越えてしまうことからも感じ取れるなあと思う今日この頃。
職場の人がおすすめしていたので読んでみた。
いわゆる「当事者性」を丁寧かつ読みやすく(≒重たくなり過ぎずに)描きくことで物語が進んでいくので、中学生以上の年代であればすいすい読めるんじゃないかな。
一応真面目な雰囲気で感想を書いておく。
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わたしはなにも答えられない。事実と真実の間には、月と地球ほどの隔たりがある。その距離を言葉で埋められる気がしない。黙って頭を下げているしかできなかった。(p251)
家族ほど、「事実」と「真実」の隔たりが際立つ場はない。客観的に記述される言葉の「事実」と、人生を大きく変えるような衝撃を当人に与える主観的な「真実」は、同じ瞬間に起きたはずなのに全く真逆の解釈を発生させる。
更紗(さらさ)と文(ふみ)の二人の視点から語られる物語には、多様な家族があらわれる。母親を失う原因となった父親の行動を模倣する息子、過酷な幼少期を過ごしたシングルマザー、家から出られない娘の父親、愛する両親を失うことでどこにも居場所がなくなった少女と、自らの身体的コンプレックスを打ち明けることが許されない家族で育つ少年。「事実」としての家族ではなく「真実」としての家族に苦しみ悩まされる人々が、その時々ですれ違いながらも人生を送っている。
たった一人を除いて、加害者の振るう暴力と被害者の受ける被害は、彼らの家族の「真実」によって省みられることで相対化される。傷つける者と傷つけられる者が絶えず入れ替わり移り変わる。互いの「真実」の隔たりの大きさゆえ、彼らは言葉を失いただ溝だけが残される。
店長と向き合ったときと同じように、静かで暗い川のようなものが互いを隔てていくのを感じている。こんなに思いやりがあふれている世界で、これほど気遣ってもらいながら、わたしは絶望的にわかり合えないことを思い知らされるばかりだ。(p270)
そのすれ違いによって傷つけあい、家族が壊れ、身も心もぼろぼろになる。更紗と文は、常に暴力とすれ違いに巻き込まれながら、生きる道を求め彷徨い続ける。周囲との隔たりの中で「事実」と「真実」を唯一共有する更紗と文の関係は、決して「事実」としては認められない彼らにとっての「真実の家族」なのかもしれない。
わたしと文の関係を表す適切な、世間が納得するような名前はなにもない。
逆に一緒にいてはいけない理由は山ほどある。
わたしたちはおかしいのだろうか。
その判定は、どうか、わたしたち以外の人がしてほしい。
わたしたちは、もうそこにはいないので。(p301,302)
覚えるべきテクスト内の概念を一つ一つ映像化してゆく記憶術の手続きは、ひょっとしたら一つ一つの単語を読みあげてゆく音読文化の名残なのかもしれない。そして、印刷本の発明とともに情報処理のパラダイムが転換すると、記憶術はその役目を終えて、忘れ去られていったのだ(p307,308)
けれども、記憶術の知的伝統は完全に消え去ってしまったわけではない。〜中略〜記憶術の知的鉱脈からは、人文主義的「方法」や技術枠、図書分類学といった新たな知的方法論が生み出されていった。また、ロッシやイエイツが指摘したように、デカルトやベーコン、ライプニッツらの近代的な思考を生み出す豊穣な知的沃土を提供したのも、記憶術の伝統だった(p308)
死についての話は、胃ろうをするのかしないのか、施設に入るのか自宅にいるのか、というように、自己決定をめぐる二者択一の形で行われることが多いようだ。衰弱の進行にともなって何度も二者択一のタイミングが訪れる。そしてこの細かい自己決定の連鎖が、患者と家族が過去を語り合うプロセスと併行する。プロセスとタイミングが対になって看取りに向けてのリズムをつくっている(p86)
まず本書では、医師の誤診によってダウン症児を産んだ女性およびその家族が、その医師を提訴する過程が描かれている。当然「障害児を産みたくなかった両親が誤診した医師を訴える」という単純な図式ではなく、両親、特に描写される母親の心境は常に揺れ動き続けていた。それは提出後に訂正された訴状の文言によって象徴的に示されている。
「訴状が訂正されているのはどうしてでしょう」
「最初はもしもダウン症だとわかっていれば中絶したと訴状に書いていましたが、途中で中絶した可能性が高いという内容に書き直したのです。原告側の母親がどうしてもそうしたいと言ったからです」
生まれてしまった子を見て、「中絶していた」と言い切ることはできないと母親は言い張ったと弁護士は説明した。(p14,15)
裁判上、「中絶していた」という言い切りが有利に働くと分かっていても、あくまでも中絶をする/しないの選択肢が委ねられているという状態そのものが奪われてしまった、そのことが両親がこの裁判を起こした主たる動機であり、
中絶という選択肢を奪われた(=知っていれば中絶した)のではなく、
中絶という選択肢が発生する機会を誤診によって奪われた(=知っていれば中絶するかしないかを悩みながら選択できた)
ことが主たる主張である。
加えて、日本における母体保護法においては、実は障害を理由にした中絶は認められていないという現実がある。出生前診断の普及に伴って胎児の障害を理由とした中絶が行われていることは報道等でも耳にする。しかし実はそれは法の拡大解釈によって成り立っているのが実情だ。
それは母体保護法にある〈身体的又は経済的理由〉を援用したものだとされる。障害を抱えた子どもを育てていく経済力がないために中絶するのだから合法である、あるいは障害を抱えた子育てをすることで精神的な影響があるとの理屈を拠りどころにしているのだ(p82)
明治時代に施行された堕胎罪によれば、中絶を求める女性と中絶を実行する医師は共に罰せられることになる。「つまり人工妊娠中絶は、堕胎罪に抵触するが母体保護法によって免責されるという曖昧さの中で行われて」おり、障害児を理由としてた中絶自体が「法的にはグレーの中で実施されていると言える」。(p83)
法の曖昧な運用により支えられている現状、障害児をめぐる様々な人の生活と葛藤、誰もが明確な答えを出せないまま続いていくそれぞれの人生があると知ること、考え続けること。
雑な感想を。
次作の『ホモ・デウス』に続くであろう最終章では、いわゆるシンギュラリティが「今後起きるかもよ!?」的な展開になる。
主な障害は、倫理的な異議や政治的な異議であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。そして、倫理的な主張は、たとえどれほど説得力を持っていても、次の段階に進むのをあまり長く防げるとは思えない。人間の寿命を際限なく引き延ばしたり、不治の病に打ち勝ったり、認知的な能力や情緒的な能力を向上させたりする可能性がかかっている場合には、なおさらだ。
たとえば、健康な人の記憶力を劇的に高める余録まで伴うアルツハイマー病の治療法を開発するとしたら、どうなるか? それに必要な研究を止められる人などいるだろうか?(p249)
たしかに倫理的な異議や政治的な異議では力不足だが、生物的/遺伝子的多様性という異議はどうだろうか。
動物にせよ人間にせよ、遺伝子工学の技術によって特定の生物学的特徴を手軽に編集できるようになるとすると、編集者の恣意性に担保された「編集済み」の生物たちは、自然界における「無編集」の生物たちよりも個体間の生物的/遺伝子的多様性が失われることなる。編集者である人間が思いつく編集方針なんて、生物の自然交配で起きる遺伝子
再配置の乱数的な複雑性からしたら、取るに足らないことは明白だからだ。
生物的/遺伝子的多様性が失われることで容易に想像できるのは、環境が変化することへの脆弱性が高まることだろう。典型例としては、遺伝子操作をして沢山実る野菜を大量に畑に植えたところ、その野菜を枯らすことのできる一つの伝染病が流行った瞬間に畑の野菜全てが枯れてしまうという事態だ。遺伝子編集によって得られる利点と比したときに、環境変異への脆弱性がどれほど相殺されるのかを考慮することは、「編集済み」の生物に対して感情的に「倫理」の名の下に規制をかけること以上の重要性を帯びている、と個人的には思う。
なるほど、読む前は「シンギュラリティに身を任せよう!」的な内容かと勝手に想像していたが、どちらかといえば、「歴史とテクノロジーの趨勢から論理的に帰結する未来像ってこうだよね」というスタンスで中立性に記述しているという印象を得た。
人間の生態的・行動的データを観測集計することにより構築されたアルゴリズムが、これからIOTを通じて社会の隅々に浸透していくとどうなるか。
人間の医師は、表情や声の調子といった外面的な手掛かりを分析して患者の情動の状態を知る。一方、ワトソン[AI医師のこと:引用者]はそのような外面的な手掛かりを人間の医師よりも正確に分析できるだけでなく、普通は人間の目や耳では捉えられない、数多くの内面的な指標も同時に分析できる。ワトソンは血圧や脳の活動など、無数の生体計測データをモニターすることで、あなたが何を感じているかを正確に知ることができるだろう。それからワトソンは、これまでの何百万回もの社会的な出会いから得た統計データのおかげで、まさにあなたが聞く必要のあることを、まさにふさわしい声の調子で伝えることができる(p146)
この引用の章題は「知能と意識の大いなる分離」である。人間の意識の解明や人間らしい意識をAIに実装することは現状できないが、知能を圧倒的に高めることで、これまで人間の意識によって担われてきた分野すらある程度カバーできてしまうのではないか、と著者は指摘している。
これを書いていて今思いついたのは、そういう圧倒的知能が人間のあらゆる行動や意思決定に深い次元で影響を及ぼす世界は、結局は「古代の宗教」や「伝統」が共同体の秩序を決定的に左右していた時代と大差ないのではないか。
「配偶者」を決定するのは:
親類や掟(過去)→自分(現在)→マッチングアプリ(未来)
仕事を決定するのは:
祖先伝来(過去)→自分(現在)→マイナビAI(未来)
言ってしまえば、「伝統」はいわば先祖代々の膨大な試行錯誤(と気まぐれな行動)という「過去データ」が、「先行世代」という(学習過程がブラックボックスな)深層学習フィルターに濾過されて出力された一つの解でしかない。
そう思えば、近代を通過した人類が享受している「個人主義」がだんだん薄められて前近代化へと逆戻りという見通しとなってしまい、ホモ・デウスという未来に対する興味が失せてくる今日この頃・・・。