2020年4月に読んだ本

 

 

 

 

9つの脳の不思議な物語

9つの脳の不思議な物語

 

 

 

記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ)

記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ)

  • 作者:桑木野 幸司
  • 発売日: 2018/12/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

覚えるべきテクスト内の概念を一つ一つ映像化してゆく記憶術の手続きは、ひょっとしたら一つ一つの単語を読みあげてゆく音読文化の名残なのかもしれない。そして、印刷本の発明とともに情報処理のパラダイムが転換すると、記憶術はその役目を終えて、忘れ去られていったのだ(p307,308)

 

けれども、記憶術の知的伝統は完全に消え去ってしまったわけではない。〜中略〜記憶術の知的鉱脈からは、人文主義的「方法」や技術枠、図書分類学といった新たな知的方法論が生み出されていった。また、ロッシやイエイツが指摘したように、デカルトやベーコン、ライプニッツらの近代的な思考を生み出す豊穣な知的沃土を提供したのも、記憶術の伝統だった(p308)

 

日本語と論理: 哲学者、その謎に挑む (NHK出版新書)

日本語と論理: 哲学者、その謎に挑む (NHK出版新書)

  • 作者:隆, 飯田
  • 発売日: 2019/09/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

世界哲学史3 (ちくま新書)

世界哲学史3 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書
 

 

 

 

死についての話は、胃ろうをするのかしないのか、施設に入るのか自宅にいるのか、というように、自己決定をめぐる二者択一の形で行われることが多いようだ。衰弱の進行にともなって何度も二者択一のタイミングが訪れる。そしてこの細かい自己決定の連鎖が、患者と家族が過去を語り合うプロセスと併行する。プロセスとタイミングが対になって看取りに向けてのリズムをつくっている(p86)

 

 

選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子

選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子

 

 

まず本書では、医師の誤診によってダウン症児を産んだ女性およびその家族が、その医師を提訴する過程が描かれている。当然「障害児を産みたくなかった両親が誤診した医師を訴える」という単純な図式ではなく、両親、特に描写される母親の心境は常に揺れ動き続けていた。それは提出後に訂正された訴状の文言によって象徴的に示されている。

 

「訴状が訂正されているのはどうしてでしょう」

「最初はもしもダウン症だとわかっていれば中絶したと訴状に書いていましたが、途中で中絶した可能性が高いという内容に書き直したのです。原告側の母親がどうしてもそうしたいと言ったからです」

 生まれてしまった子を見て、「中絶していた」と言い切ることはできないと母親は言い張ったと弁護士は説明した。(p14,15)

 

裁判上、「中絶していた」という言い切りが有利に働くと分かっていても、あくまでも中絶をする/しないの選択肢が委ねられているという状態そのものが奪われてしまった、そのことが両親がこの裁判を起こした主たる動機であり、
中絶という選択肢を奪われた(=知っていれば中絶した)のではなく、
中絶という選択肢が発生する機会を誤診によって奪われた(=知っていれば中絶するかしないかを悩みながら選択できた)
ことが主たる主張である。

  

 加えて、日本における母体保護法においては、実は障害を理由にした中絶は認められていないという現実がある。出生前診断の普及に伴って胎児の障害を理由とした中絶が行われていることは報道等でも耳にする。しかし実はそれは法の拡大解釈によって成り立っているのが実情だ。

 

それは母体保護法にある〈身体的又は経済的理由〉を援用したものだとされる。障害を抱えた子どもを育てていく経済力がないために中絶するのだから合法である、あるいは障害を抱えた子育てをすることで精神的な影響があるとの理屈を拠りどころにしているのだ(p82)

 

明治時代に施行された堕胎罪によれば、中絶を求める女性と中絶を実行する医師は共に罰せられることになる。「つまり人工妊娠中絶は、堕胎罪に抵触するが母体保護法によって免責されるという曖昧さの中で行われて」おり、障害児を理由としてた中絶自体が「法的にはグレーの中で実施されていると言える」。(p83)

 

法の曖昧な運用により支えられている現状、障害児をめぐる様々な人の生活と葛藤、誰もが明確な答えを出せないまま続いていくそれぞれの人生があると知ること、考え続けること。

 

一神教と戦争 (集英社新書)

一神教と戦争 (集英社新書)

 

 

 

 

 

 

雑な感想を。

次作の『ホモ・デウス』に続くであろう最終章では、いわゆるシンギュラリティが「今後起きるかもよ!?」的な展開になる。

 

主な障害は、倫理的な異議や政治的な異議であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。そして、倫理的な主張は、たとえどれほど説得力を持っていても、次の段階に進むのをあまり長く防げるとは思えない。人間の寿命を際限なく引き延ばしたり、不治の病に打ち勝ったり、認知的な能力や情緒的な能力を向上させたりする可能性がかかっている場合には、なおさらだ。

 たとえば、健康な人の記憶力を劇的に高める余録まで伴うアルツハイマー病の治療法を開発するとしたら、どうなるか? それに必要な研究を止められる人などいるだろうか?(p249)

 

たしかに倫理的な異議や政治的な異議では力不足だが、生物的/遺伝子的多様性という異議はどうだろうか。

動物にせよ人間にせよ、遺伝子工学の技術によって特定の生物学的特徴を手軽に編集できるようになるとすると、編集者の恣意性に担保された「編集済み」の生物たちは、自然界における「無編集」の生物たちよりも個体間の生物的/遺伝子的多様性が失われることなる。編集者である人間が思いつく編集方針なんて、生物の自然交配で起きる遺伝子
再配置の乱数的な複雑性からしたら、取るに足らないことは明白だからだ。

生物的/遺伝子的多様性が失われることで容易に想像できるのは、環境が変化することへの脆弱性が高まることだろう。典型例としては、遺伝子操作をして沢山実る野菜を大量に畑に植えたところ、その野菜を枯らすことのできる一つの伝染病が流行った瞬間に畑の野菜全てが枯れてしまうという事態だ。遺伝子編集によって得られる利点と比したときに、環境変異への脆弱性がどれほど相殺されるのかを考慮することは、「編集済み」の生物に対して感情的に「倫理」の名の下に規制をかけること以上の重要性を帯びている、と個人的には思う。

 

 

 なるほど、読む前は「シンギュラリティに身を任せよう!」的な内容かと勝手に想像していたが、どちらかといえば、「歴史とテクノロジーの趨勢から論理的に帰結する未来像ってこうだよね」というスタンスで中立性に記述しているという印象を得た。

人間の生態的・行動的データを観測集計することにより構築されたアルゴリズムが、これからIOTを通じて社会の隅々に浸透していくとどうなるか。

 

人間の医師は、表情や声の調子といった外面的な手掛かりを分析して患者の情動の状態を知る。一方、ワトソン[AI医師のこと:引用者]はそのような外面的な手掛かりを人間の医師よりも正確に分析できるだけでなく、普通は人間の目や耳では捉えられない、数多くの内面的な指標も同時に分析できる。ワトソンは血圧や脳の活動など、無数の生体計測データをモニターすることで、あなたが何を感じているかを正確に知ることができるだろう。それからワトソンは、これまでの何百万回もの社会的な出会いから得た統計データのおかげで、まさにあなたが聞く必要のあることを、まさにふさわしい声の調子で伝えることができる(p146)

 

この引用の章題は「知能と意識の大いなる分離」である。人間の意識の解明や人間らしい意識をAIに実装することは現状できないが、知能を圧倒的に高めることで、これまで人間の意識によって担われてきた分野すらある程度カバーできてしまうのではないか、と著者は指摘している。

 

これを書いていて今思いついたのは、そういう圧倒的知能が人間のあらゆる行動や意思決定に深い次元で影響を及ぼす世界は、結局は「古代の宗教」や「伝統」が共同体の秩序を決定的に左右していた時代と大差ないのではないか。

 

「配偶者」を決定するのは:

親類や掟(過去)→自分(現在)→マッチングアプリ(未来)

仕事を決定するのは:

祖先伝来(過去)→自分(現在)→マイナビAI(未来)

 

言ってしまえば、「伝統」はいわば先祖代々の膨大な試行錯誤(と気まぐれな行動)という「過去データ」が、「先行世代」という(学習過程がブラックボックスな)深層学習フィルターに濾過されて出力された一つの解でしかない。

そう思えば、近代を通過した人類が享受している「個人主義」がだんだん薄められて前近代化へと逆戻りという見通しとなってしまい、ホモ・デウスという未来に対する興味が失せてくる今日この頃・・・。

 

 

 

カントの「悪」論 (講談社学術文庫)

カントの「悪」論 (講談社学術文庫)

  • 作者:中島 義道
  • 発売日: 2018/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)