2020年5月に読んだ本

 

 

物体はつねに空間中に現象する。そのとき、物体の占める場所はその周囲を空間に取り囲まれている。その場所と周囲との境界が限界である。「限界(Grenze)」という単語は「国境」という意味をもつように、その内と外を意識させるものである。さらに言えば、その外と内の双方に否定的な意味はない。国境で接するドイツとフランスに否定的な意味がないのと同様である(p239)

 

「限界(Grenze)」は空間内的イメージを持つ。

 

人間理性・悟性はこの限界内で思考することで客観的認識を維持することができるが、ひとたびこの「限界」を超え出て考え始めるとそれは超越的であり、主観的な独断論に陥ってしまう。

 

だがこの主観的で独断的と批判される超越的な思考をカントが一切否定するのかと言えばそうでもない。脱線気味な話や比喩的な話も含めれば、
純粋理性批判』では私たちとは別用の認識形式をもつ存在者であればヌーメノンを認識できるとか、
『視霊者の夢』では透視や未来予知をする当時のスピリチュアルな著名人スウェーデンボルグの話を嬉々として書き綴ったりとか、
『永遠平和のために』では平和を実現するために国境(まさにGreanze)を越えた訪問権の提唱だとか。

 

哲学における客観性の確立を目指したのが『純粋理性批判』の目的であって、それはカントという人間が発する哲学の一部でしかない、という認識は「限界」という概念をある時は客観性の確保のために使いある時はひょいっと飛び越えてしまうことからも感じ取れるなあと思う今日この頃。

 

 

法の精神〈上〉 (岩波文庫)

法の精神〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

 

【2020年本屋大賞 大賞受賞作】流浪の月

【2020年本屋大賞 大賞受賞作】流浪の月

  • 作者:凪良 ゆう
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: 単行本
 

 

職場の人がおすすめしていたので読んでみた。
いわゆる「当事者性」を丁寧かつ読みやすく(≒重たくなり過ぎずに)描きくことで物語が進んでいくので、中学生以上の年代であればすいすい読めるんじゃないかな。
一応真面目な雰囲気で感想を書いておく。

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わたしはなにも答えられない。事実と真実の間には、月と地球ほどの隔たりがある。その距離を言葉で埋められる気がしない。黙って頭を下げているしかできなかった。(p251)

 

家族ほど、「事実」と「真実」の隔たりが際立つ場はない。客観的に記述される言葉の「事実」と、人生を大きく変えるような衝撃を当人に与える主観的な「真実」は、同じ瞬間に起きたはずなのに全く真逆の解釈を発生させる。

 

更紗(さらさ)と文(ふみ)の二人の視点から語られる物語には、多様な家族があらわれる。母親を失う原因となった父親の行動を模倣する息子、過酷な幼少期を過ごしたシングルマザー、家から出られない娘の父親、愛する両親を失うことでどこにも居場所がなくなった少女と、自らの身体的コンプレックスを打ち明けることが許されない家族で育つ少年。「事実」としての家族ではなく「真実」としての家族に苦しみ悩まされる人々が、その時々ですれ違いながらも人生を送っている。

 

たった一人を除いて、加害者の振るう暴力と被害者の受ける被害は、彼らの家族の「真実」によって省みられることで相対化される。傷つける者と傷つけられる者が絶えず入れ替わり移り変わる。互いの「真実」の隔たりの大きさゆえ、彼らは言葉を失いただ溝だけが残される。

 

店長と向き合ったときと同じように、静かで暗い川のようなものが互いを隔てていくのを感じている。こんなに思いやりがあふれている世界で、これほど気遣ってもらいながら、わたしは絶望的にわかり合えないことを思い知らされるばかりだ。(p270)

 

そのすれ違いによって傷つけあい、家族が壊れ、身も心もぼろぼろになる。更紗と文は、常に暴力とすれ違いに巻き込まれながら、生きる道を求め彷徨い続ける。周囲との隔たりの中で「事実」と「真実」を唯一共有する更紗と文の関係は、決して「事実」としては認められない彼らにとっての「真実の家族」なのかもしれない。

 

わたしと文の関係を表す適切な、世間が納得するような名前はなにもない。
逆に一緒にいてはいけない理由は山ほどある。
わたしたちはおかしいのだろうか。
その判定は、どうか、わたしたち以外の人がしてほしい。
わたしたちは、もうそこにはいないので。(p301,302)