2020年7月に読んだ本

 

 

 

湯殿山の哲学: 修験と花と存在と

湯殿山の哲学: 修験と花と存在と

 

 

鮭が生まれた河を遡上するのは、河の臭いを覚えているからだと言われている。哲学的な鮭がいるとして、中世スコラ哲学、イスラーム思想、修験道、メディア論などの流れを経めぐりながら、結局、湯殿山の本質に戻ってきたのだとしたら、それは哲学的な鮭(salmo philosophicus)なのだ。私は「哲学的な鮭」だ(p90)

 

 

 

 

「自閉症」の時代 (講談社現代新書)

「自閉症」の時代 (講談社現代新書)

 

 

近代以前の伝統社会においては反復こそが社会適応のための有効な手段であった。ところが近代化が進むにつれて反復は、柔軟性の欠如として低く評価されるようになった(p87)

 

反復すること、常同行動をとることによって「外界からの侵害として受け取られるような刺激を何とか遮断しようとする」、そのような「防御策」として自閉症者の行動を位置付けると、現代社会は構造的な自閉症化への圧力があるように見える。(p68)

 

例えば映像や音楽のコンテンツが、TVによる1回限りの放映や物理的に劣化するレコード盤の時代とは違って、自ら選択した映像単体や曲単体をオンデマンドでストリーミングで再生できることが現在は当たり前となった。

TVを点けた時間に偶然放映していたその場限りの番組に遭遇したり、アルバム単位で購入することが必然であったために聞かざるを得ないそのトラックリストたちは、現代においては過去の物となりつつある。

その結果起きていることは、時間が経過することで引き起こされる不確実性の漸次的な排除ではないだろうか。

自閉症者のよくある特徴として、時間の空間化が挙げられる。時間の流れという不確実な未来を予期させるものへの不安から、時間を空間化することで、具体的には1日の予定をスケジュール表に書き出して目の前に張り出しておくことで、自閉症者の安心感を作り出すことができる場合がある。

 

そういった文化の自閉症化とも言えるような状況とは対称的に、現代社会が労働者に求める典型的能力としてコミュニケーションがある。これは言わば、不確実な未来の状況が到来しても周囲とコミュニケートすることで生産活動を維持する能力であるだろう。20世紀半ばに医学的に「発見」され、21世紀になりより注目が集まる「自閉症者の存在が良くも悪くも析出してしまうような状況が、世間において強まっているように思われる」。(p88)

 

 

 

障害者差別を問いなおす (ちくま新書)

障害者差別を問いなおす (ちくま新書)

  • 作者:荒井 裕樹
  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

 

 

透明な夜の香り (集英社文芸単行本)

透明な夜の香り (集英社文芸単行本)

 

 

 

 

子供である私たちは、自らが生きる世界の中で、自我と他我の区別もないまま世界と直に触れ合い始める。目の前に広がる果てしのない風景に魅せられ、背中の方でいつも見守ってくれる両親や保護者の気配を感じながら、少しずつこの世界の中に自分の痕跡を刻んでゆく。紛れもなく揺るがし難い「私」という存在。そんな確固とした事実の起因となった「両親」について考える時、人はたちまち足場を失ってしまう。なぜなら子供をつくることにはどこまでいっても偶然性に付きまとわれるからだ。子供から見た「私」という動かし難い事実と、「両親」から見た偶然性に満ちあふれた子供。一人の「私」を、自分から見るか「両親」から見るかで分かたれる、埋めようのない溝がそこにはある。

 

我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか(p96)

 

子供である私たちは、「私」を唯一無二の事実として受け止めている。しかしその根拠をどんなに求めても、出てくる答えは偶然の積み重ねでしかない。村上は父親の生前の生い立ちを辿りながら、戦争や家族や地域との関わり合いのなかで様々な偶然に左右されていたことを発見する。そしてその偶然の連なりの内に、自らが生きているということを強く意識する。

 

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう(p96)

 

 

2009年のイスラエルにて、村上がエルサレム賞を受賞した際のスピーチである「卵と壁」(『雑文集』新潮文庫 所収)にも、幼い頃に自らの父親と交わした会話の場面が描かれている。

 

私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました。〜私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと(『雑文集』,新潮文庫,p99)

 

戦場で命を落とした「固有ではあるけれど、交換可能な一滴」としての兵士たち。その一滴一滴の雨水が持っていた「思い」や「歴史」を、同じ雨水である私たちは「受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」。父の祈りの姿勢から村上が引き継いだものによって、父のことを語る『猫を捨てる』は書き上げることができたのだろう。

 

父は亡くなり、その記憶もーそれがどんな記憶であったのか私にはわからないままにー消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです(同,p100)
 

 

 

ロシア文学関連

どん底 (岩波文庫)

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