2018年8月に読んだ本

 

偏食的生き方のすすめ (新潮文庫)

偏食的生き方のすすめ (新潮文庫)

 

 一年間の日記の端々に否応なく現れる「偏食的」な生きざま。

安定の面白さ。

 

 

イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)

イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)

 

 

 

 

 

 

 

悪党的思考 (平凡社ライブラリー)

悪党的思考 (平凡社ライブラリー)

 

 中世にいたるまで日本の権力者であった天皇は「「法治するする王」と「魔術王」とで表現されるような二重性をもって」いた。(p37)
新興勢力である鎌倉武士や「織田信長のような近世的なタイプの権力空間をつくりあげようとした人」は法治する王としての振る舞いに特化することにより、価値の揺らぐ不安定で流動的な力を「制度」の中に取り込み/切り分けていった。(p31)

 

 

蜜の流れる博士

蜜の流れる博士

 

 

 

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

 

 

「テクニウム」とはテクノロジーの持つ性質のことを指す著者の造語である。その性質とは、エントロピーの減少(秩序の形成)が「テクノロジー」として構築され、しだいに収斂進化・先鋭化し世界に偏在化していくという特徴を持つ。そしてその対象は現代社会で通常使われる科学的なテクノロジーに留まらず、人類の知恵、宗教、生物学的適応、はたまたビッグバンや恒星や銀河の生成なども含むまさしく「宇宙の始まりから全て」である。

 

以下、適当な抜き書き。

 

我々の遺伝子は、われわれの発明とともに共進化を遂げた。遺伝子の進化の平均的な速度は過去1万年だけに限っても、それ以前の600万年の100倍に達している。  (p47)

 

これは野生動物の家畜化や農耕化というテクノロジーによって引き起こされた生物学的変化である。

 

つまり道具を作り直したとたん、それがわれわれ自身をも作り直していた。われわれはテクノロジーと共進化してきたので、それに深く依存するようになった。もしナイフや槍などのすべてのテクノロジーを地球上から取り除いてしまったら、人類は数ヶ月しか生きられないだろう。そして今では、テクノロジーと共生しているのだ。(p46)

 

テクノロジーが支配的なのは、その出自が人間の知性に由来するからというより、銀河、惑星、生命、知性を存在させることになったのと同じ、自己組織化という期限を持っているからだ。テクノロジーとはビッグバンのときに始まった非対称な弧の一部であり、時間が経つにつれてますます抽象的かつ非物質的になっている。その弧は、物質とエネルギーというはるか昔の規則からの、緩慢だが不可逆的な解放なのだ。(p83)

 

そのようなテクニウムが起こすある必然性の例として↓

 

どんな分野のどんな種類の発見でも歴史を深く掘っていくと、第一発見者を主張する人が複数いる。実際のところ、新しいことには多くの生みの親がいるものだ。太陽の黒点は1611年に、ガリレオを含む2人どころか4人によって別々に発見されていた。温度計を発明した人は6人いたし、皮下注射針は3人だ。エドワード・ジェンナー以前にも、種痘の効果を発見した4人の科学者がいた。アドレナリンが「初めて」分離されたことも4回あった。(p153)

 

同じような発明が独立して同じ時期に起きることがよくあることからわかるのは、テクノロジーの進化も生物の進化と同じように収束していくということだ。もしそうなら、歴史のテープを巻き戻して再度実行すると毎回、まるで同じ発明の過程が繰り返されることになるだろう。テクノロジーも必然なのだ。さらに形態学的な原型が現れることからわかるのは、このテクノロジーの発明には方向性や傾向があるということだ。その傾向とは、発明した人間からは独立したものだ。(pp154-155)

 

テクノロジーの発展にはある「方向性」があり、ある方角へ「収束」していくという必然性を孕む。

と、

 

既存のテクノロジーがあるひとつの社会の中に混ざり合って積み重なることで、休むことなく潜在力を増大させる過飽和の母体が作られ、そこに正しいアイデアがタネとして播かれると、水が凍って氷の結晶になるように、必然的な発明がまさに堰を切ったように形を成す。しかし科学が示すように、水が十分冷えれば氷の結晶ができるのが運命ではあるが、どのふたつの雪の結晶も同じにはならない。水が凍るという道は事前に決まっているものの、その表現には大きな自由の余地があって、そこから美が生まれる。個々の雪の結晶の実際の形は予測不可能だが、その六角形の原型は事前に決まっている。こうした単純な分子でも、或る条件の下にできる形の多様性は際限なくあるのだ。そしてこのことは、今日の極度に複雑な発明にもあてはまる。白熱電球、電話、蒸気機関の結晶にあたる形は決まっているものの、それらの実際の形には進化環境によって何百万もの可能性がある。(p176)

 

 

 

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

 

 

 

 

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

 

 

 

大森荘蔵セレクション (平凡社ライブラリー)

大森荘蔵セレクション (平凡社ライブラリー)

 

 

科学的世界認識は「世界は人間の知覚とは独立である、という単純だが強力な哲学」に動機づけられている。(p314)

この原理は、人が見ていようといまいと、目覚めていようといまいと、生きていようといまいとに関わりない世界描写を要求する。~このことは、日常言語の殆どすべてを禁句にすることを意味する。日常言語の殆どすべては相貌語(走る、動く、等)であり、知覚性質語(赤い、丸い、静か、等)であるからである。(pp314-315)

「幅の無い線、拡がりのない点」によって描写される世界像は、人間の「知覚的形状は必ず或る視点(距離、角度)からの形状であるのに対して、幾何図形は視点を持たない。無視点なのである」。(同)

 

このような視点が導くのは目の錯覚や鏡像として知覚される対象と科学的にあるべき姿の乖離、「実物ー像」の剥離である。歴史上多くの哲学者によって議論されてきたこの二元論に対して著者が提示するのが「立ち現れ一元論」なのである。(p224~「ことだま論」を参照)

 

また、個人的にはこういう文章が好きというかいいなあとしみじみ思う今日この頃。

果たして、四つの直線が四つの角を作りながらしかも或る一点から等距離にあると想像することは不可能なのだろうか。また多くの人は赤外線の色や超音波の音色を想像することは不可能だが、公園の樹木とか、眼前の机の後姿を想像することなどは何でもないと言うだろう。その人びとはまた誰それはあんなことをしないでもよかったのにと気易く言うだろうが、ある事を現にした人間をそれをしなかった人間として想像しているのではあるまいか。ヴィトゲンシュタインが、我々は不可能なことを思うことはできない、と言うのは正しいであろう。だが困ったことに、我々は不可能とはどういうことなのかを明確に思うことができないのである。(pp336-337)