「レンマ学 第5回 現代のレンマ学へ」 中沢新一 群像2018年6月号 走り書き

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群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 

短いまとめ

 

あらゆる事物・事象の根底で働く純粋レンマ的知性に時間性が介入することによっておこるレンマとロゴスへの分岐。→①分岐

その過程を四つに分け考察され→②四法界

その現代的応用を分子生物学においておこなう。→③生物における楼閣

 

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長いまとめ

 

①分岐

 

純粋レンマ的知性は「あらゆる生命現象~の根底で働いて」おり、「すべての生命の中で、さまざまな発達段階のレンマ的知性が活動している」。(p234)

それは原核生物からから始まり、菌類、植物、動物、人間に至るまで及んでいる。

 

大乗起信論』においては、「ロゴス的知性そのものが、レンマ的知性の変異体」とされ、「変異体が出現する以前の純粋レンマ的知性を「如来像」と呼」んでいる。図式化すれば、

 

                           レンマ的知性(真正体)

                          ↗

如来像    → (時間性の介入) →アーラヤ識  

(純粋レンマ的知性)           (心的現象)  ↘

                           ロゴス的知性(変異体)

 

 

となる。(p235)

相即相入しあう法界、純粋レンマ的知性に時間が持ち込まれることにより、非局所的なレンマ的知性と局所的なロゴス的知性に分化してしまうことになる。

 

※《②四法界 ⅲ「理事無碍法界」》の考察をふまえれば、上図で表された

「純粋レンマ的知性」と「レンマ的知性(真正体)」は

「法界」と「言語」と言い換えることも可能だろう。

 

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②四法界

 

中国華厳教では法蔵の後、澄観(738~839)が法界の探究を押し進めている。

 

澄観は法界が四種の異なる様態を含んでいることを示した。「四種」は法界を構成する最小数の基本原理を示すもので、じっさいは四種の異質な様態がたがいに関係しあうことによって、法界には具体的運動が発生している。(p236)

 

「四種法界」ないし「四法界」:ⅰ「事法界」

               ⅱ「理法界」

               ⅲ「理事無碍法界」

               ⅳ「事々無碍法界」  

 

 

ⅰ「事法界」

「たえまなく現象の生起がおこなわれ」、「個々の事物がたがいに差別をもって対立している」ロゴス的な様態。(p236,237)

 

ⅱ「理法界」

事法界において分離・対立していた個々の事物が、「じつは平等にして一如であること

」、これが理法界の様態でありレンマ的知性に対応している。(p237)

 

ⅲ「理事無碍法界」

上記のような「事と理が法界では、相即相入して、自在に交徹円融しあっている」様態を理事無碍法界という。(p237)

 

それを生命現象で例えるなら、あらゆる生命は「自己を外界から差別する膜を持ち、~自己を複製している」。これは「事法界の様態をとおして、生物個体が現象しているのである」。一方生命はその活動において、「栄養物質を取り入れ、廃物は膜の外に捨てられる。このようなことが可能であるためには、自己と外界との平等を認識する理法界の様態が、生物の中で働いているのでなけれなならない」。(p238)

 

また、人間の経済活動においては「商品」の名のもとに、個々の事物が「価値」において「平等」と認識され「交換」される。ただそれはあくまでロゴス的知性が「「抽象」によって事法界の差別相の奥に、一元的な平等相を認識」し、「不要となる差別相は見ないように捨象」するのであって、二次的なレンマ的知性にすぎない。(p237)

 

よりレンマ的知性が働いているのは言語においてである。

様々な事象や知覚を分類しまとめあげることで、多様なカテゴリーごとに語彙がつくられ、「句構造(統辞構造)」によって配列される。「その普遍構造こそ、レンマ的知性の変異体として理事無碍法界を充填している、ロゴス的知性の実現形にほかならない」。(239)

そして、「そのロゴス軸に交わるようにしてレンマ的知性の軸が嵌入している。カテゴリーに分別・分類された語彙と語彙の間に、縁起的連結を生み出す「喩(アナロジー)」の力が働くのである」。(p239)

相即(メタファー)と相入(メトミニー)が語彙の間に発生することで日常言語や芸術言語、詩的言語が生まれることとなる。(p239)

 

人類の言語はこのようにロゴス軸とレンマ軸の組み合わせとしてつくられている。言語が世界を分別・分類しようとするときには、強くロゴス軸が働きだすが、「ゆらぎ」をもたらす喩の作用がただちに嵌入してきて、言語表現には人類の言語特有のふくらみがもたらされる。理事無碍法界という心的様態にレンマ的知性の働きが強く作用するこのとなかから、現生人類(ホモサピエンス)の言語は生まれてきた。(p239)

 

 

ⅳ「事々無碍法界」

これは先に述べた「如来蔵」、純粋レンマ的知性の様態といえるだろう。
 
すべての事象や事物は空から生起して有に転じるものであるから、この空有合成の構造をもってたがいに相即相入を果たし、重々無尽に自在な交通をおこなう。そのために法界に生起するあらゆる事象・事物が、法界を充填している縁起=レンマ的知性に相応した動きにしたがうのである。(p241)

 

さらには、ライプニッツにおけるモナドが事々無碍法界と多くの共通点を持つこと、ライプニッツ微積分学とは別の方向へと事々無碍法界的な数論が展開されたことが加えて挙げられている。

 

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③生物における楼閣

 

法界、無限の楼閣が相即相入し合う縁起の世界、これを具体的な次元でいうならば、「生物学者リン・マーギュリスらの「細胞の共生進化」説は、そのための絶好の事例」となる。(p244)

真核生物は原核生物からの進化の過程で、「別々な生物として発展していた生物を自分の中に取り込むことによって、新しいレベルの生命体へ進化を遂げた。すなわち、酸素呼吸の能力を持つミトコンドリア光合成によって太陽エネルギーを変換してATPにする能力を持つ色素体、運動能力に優れた波動毛(鞭毛)など、~自分の中に取り込んで円融させることによって、~進化がおこった」のである。(p244)

このような様は「きわめて華厳学的な現象を示して」おり、なおかつ「分子生物学的な進化論の核心部分に触れて」もいる。(p244,245)

 

理事無碍法界である生命は、~進化をとげながら、さらに高度なレベルの全体に円融していくのである。このようなレンマ的発想が現代の生命論には求められている。(p245)

 

こうして私たちは、現代レンマ学の構築を可能にする、新しい思考平面に歩み出ることができた。この思考平面には、いままで科学的精神をもって構築される「学」の体系は存在しなかった。そこに私たちは「レンマの動く楼閣」を創りだそうと思う。(p245)

 

 

 

2018年6月に読んだ本

 

ニッポン異国紀行 在日外国人のカネ・性愛・死 (NHK出版新書)

ニッポン異国紀行 在日外国人のカネ・性愛・死 (NHK出版新書)

 

 宗教/文化./民族/その他の違いが死体の扱いを大きく変え、高度な死体の保存技術もその金銭的負担と相まって、残された人への課題を多く生み出してしまう。或る種の「境界」に関わる人の声の生々しさ、割り切れない人間味が、人間社会の普遍性を担保しているんだろうなあとしみじみ思う。

 

地を這う祈り (新潮文庫)

地を這う祈り (新潮文庫)

 

 

 

世界の産声に耳を澄ます

世界の産声に耳を澄ます

 

 

 

祈りの現場

祈りの現場

 

 

 

現代思想の名著30 (ちくま新書 1259)

現代思想の名著30 (ちくま新書 1259)

 

 

 

聖地巡礼リターンズ

聖地巡礼リターンズ

 

 

 

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

 

 

 

発達障害と少年犯罪 (新潮新書)

発達障害と少年犯罪 (新潮新書)

 

著者は言う。

私が強く述べたいのは、発達障害が犯罪行為に結びついてしまったような事件や事例は、明らかに治療や教育の失敗が原因であるということだ。(p35)

 

むしろ発達障害の有無よりも、特に幼児期の育児環境のほうが成長後の犯罪を引き起こす心理状態を招く可能性さえあるという。

 

なにはともあれ、障害関係はまずは「知る」ことが第一であり、そのファーストステップこそが、いわゆる「健常者」が持つ最も重篤な「障害」として多くの人の前に立ちはだかっているのだろう。

 

 

 いわゆる「科学一般」がはらむ暴力的な同一性が引き起こす機能不全を認識し、差異を見出すことの重要性をドルゥーズの「差異と反復」にそって語られる。

 

因果の糸を辿ろうといくら脳細胞を観察しても、観察する主体も脳組織や神経細胞である現実からは逃れられない。「原因」をいくら求め続けても、その過程が終わりのない袋小路であることは古来より指摘され続けてきたことであるにも関わらず、因果律という中毒性の高い思考法から人はなかなか逃れることはできない。

 

「原因」と「結果」を切り分けて考えるロゴス的知性、その非対称的思考はたしかに現代社会の隅々にまで浸透しているのだ。

 

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

 

 

 

 このテクストが目指すところより、このテクストが意味する事実に目を向けるならば、カントは結構オカルト好きということ。そしてにわかには信じがたい事例を述べながらも皮肉を交えることを忘れない。

理性のいんちきな理由づけを盲目的に信奉する方が、人をまどわす幽霊実話を不用心に信用するよりはたしてより名誉となることであろうか?(p94)

 

 

本書の目的の一つは、近世以来、哲学的認識論の側面で主流と考えられている時間の「意識論的」側面と、時間の一般了解となっている科学的(物理的)な意味での時間について考え、そこに潜む問題を分析し、時間論についての新しい見方や両者の関係を提示することにある。(p2)

 

「意識論的」な時間とは、ベルクソン的な時間論、日々私たちが「あっという間」とか「まるで永遠のように」感覚さえる時間。

「科学的(物理的)」な時間とは、時計の針が一秒一秒を刻む数(直線)的な時間、時に原子の振動数によってはかられるようなそれ。

 

それらの両者を併せて考えることなしに、現代において時間を「探究」することはできないという著者の、「哲学史における時間」と「物理学史における時間」の分析が本書には収められている。

 

時間論には、哲学史的な観点、科学基礎論的な観点、数学的無限論や時間論理の問題など、議論すべき視点はそれこそ無数にある。そうした総合的研究を通じてさえ、おそらく、時間の存在性格は簡単には定義できないであろう。今日の物理学と歴史的な哲学の時間論との関係でさえ、極めて難しい問題が存在している。時間は、我々がもっている言語、世界観の限りを尽くさないとみえてこない全体なのだ、と思われるのである。少なくとも、時間を深く論じるためにはフィジカとメタフィジカのアイディアを双対的にみることは今後必要である。(pp20-21)

 

「レンマ学 第4回 脳によらない知性」 中沢新一 群像2018年5月号 走り書き

 

群像 2018年 05 月号 [雑誌]

群像 2018年 05 月号 [雑誌]

 


今回は『華厳経』以後のレンマ的知性の探求と、現代の脳科学研究において判明した人間の脳組織由来の思考法との接続が試みられる


短いまとめ

・『華厳五教章』:レンマ的知性が働く法界の構造を分析
・『大乗起信論』;レンマ的な法界と、様々な煩悩が渦巻く現実の人間的知性(ロゴス的知性)は現実世界でどのような関係にあるのかを探求
・その上で現代の脳科学的知見とつなげることで、脳機能上の特性と、その特性を成り立たしめている法界(レンマ的知性)が人間の「心」として現れる様を考察する

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長いまとめ


まず、『華厳経』後のレンマ的知性の探求として、

①『華厳五教章』を始めとした中国華厳宗の諸著作
②『大乗起信論

が挙げられる。

 

①『華厳五教章』及び中国華厳宗
→「法界の内部に働いている構造(体性)力(力用)を律している原理を、「相即相入」の過程として精密に定義した」(p235)

 

構造(体性):法界における「無限の楼閣」を内包した全体性

法界にあるあらゆる事物が、体性の面から見れば、無自性(自分の本質というものを持たない)空に根を下ろし、そこから生起して個体性をもって、他の事物と縁起によってつながりあう。(p234)

 

力(力用):相即相入、一即多、多即一と表される流動的な運動性

縁起する諸存在は〜個体性を超えて相互に力の出入(力用)も起こるのである(p234)

 

 

↓↓

 以上の前提をふまえ、 

『華厳五教章』における法界の特徴

・空間と時間も一つにつながって、時空連続をなしている
・主体と客体も相即相入しあっている
・法界の諸法(諸存在※引用者注)は重々無尽に相即相入しあって、完全に融け合って(円融)自在につながりあっている
・法界のすべての事物(法)は、小の中に大がすっぽり収まり、一の中に多がやすやすと容れられる
・あらゆる存在(法)が顕在部と潜在部が一体となって、法界縁起をおこなっている
(以上p235)


このような特徴はまさしく粘菌において観察される事柄である。

 

多核単細胞生物である粘菌の「体」は、全体が縁起一体で動いている。それぞれの核の周りに相即する類似のエネルギー物質を運搬する液体が流動している。こうした管が全身にゆきわたっているおかげで、エネルギーの「力用」に関して、一細胞に形成されたエネルギー物質は多数の細胞に流れ込み、多数の細胞から一細胞への搬入が起こる。(p236)

 

また粘菌は、湿気の多い環境では動物的形態が顕在化し(植物的形態が潜在化し)、乾燥した過酷な環境においては植物的形態が顕在化する(動物的形態が潜在化する)。


粘菌の脅威は〜象徴でも比喩でもなく、法界縁起がそのまま顕在化しているのである。(p237)

 

 


②『大乗起信論
→法界で働くレンマ的知性と、時間秩序に従って並べ立てるロゴス的知性が
現実の人間の心でどのような関係のもと働いているのかを探求した

 

華厳経』では、法界のあらゆる事物(諸法)は相即相入することによって自ずから時間を消し去ると説かれるが、『大乗起信論』の関心事はむしろ、時間性のない心真如のうちに突然時間が入り込むことによって、心が時間存在に変容し、絶え間ない生滅変化を経験するようになるという事態のほうに向けられている。(p238)


まず『大乗起信論』において人間の心は、
真如(心真如)
滅心(生滅心)
とに分けられる。

 

真如(心真如):分別がなく時間によって変化しない「純粋レンマ的知性」

真如は「ありのままの心」である。分別するロゴスの働きの及ばない場所で、時間によって変化することのない永遠の相においてある心という意味であるから、レンマ学の言い方で言えば法界縁起する「純粋レンマ的知性」のことをさしている(p238)


滅心(生滅心):時間によって変化するロゴス的知性

時間の変化にしたがって移ろい変化していく心で、差別相をもって多義的に散乱していく。(p238)


「現実の人間(衆生)の心」は世界を認識する時、分別や差別を持ち、嫉妬や怒りといった感情、煩悩によって滅心が生まれてしまう。(p237)


↓↓

 

つまり、人間の心の構造は、「心真如と生滅心とが一体になることによって」相互に影響し合い、「心的現象を生み出している」。(p239)

 

ほんらい相即相入して全体運動をなしている法界の諸存在(諸法)が、時間の線形秩序にしたがって「並べられていく」と、〜無分別の心真如が分別する生滅心に突如として変化を起こすが、二つの心は「和合」して、心的現象の全領域を生み出す。(p239)

 

この「心的現象の全領域」を、大乗仏教唯識論の言葉を借りれば「アーラヤ識」と言うこともできる。
アーラヤ識の形成には、「時間性の介入による諸法の並べ立てが決定的な働きをするのである。」(p239)

そのようなアーラヤ識の形成を『大乗起信論』では、「よく花の香りが衣服に移る様子に喩えられる」、「薫習」でという概念で説明される。

 

縁起の理法によって動き変化する法界には、感覚器官につながっている生滅心からの時間化された情報が送り込まれ、薫習による変換(法界構造から時間性ロゴスへ)がおこなわれる。しかし薫習は双方向的で、法界の側からの薫習が生滅心にも加えられる。そしてこの双方向の薫習を経たなにものかを、「心」として人間は体験するのである。(p240)

 


ーーーーーーーーーー

 

 

「中枢神経系を持たない生物」である粘菌と違い人間は、「高度に発達した脳と中枢神経系を介して、世界と縁起しなくてはならない」。人間の脳におけるニューロン神経細胞)の構造からして不可避的にロゴス的知性活動を強いられることになる。電気信号をニューロンからニューロンへ順に伝達する「時間性を最大利用した」情報処理は、「ロゴス的な分別、主客の分離、愛と不愛の発生、愛的対象への忌諱」を生み出すことになる。(p241)

 

世界の出来事が時間を介して現実として顕現するまさにその瞬間に、まったく同じ場所で、レンマ的知性の宿る法界が活動している。現実世界もまた法界の部分に他ならない。その現実世界とも相即相入しながら、法界の全体運動は一瞬止むことがなく続けられる。人類の脳はそこに挿入されている極小のロゴス型観測装置にほかならない。(p242)

 

ニューロンを介した世界認識をする人間にとって現実世界はロゴス的知性に満ちている。人間のロゴス的脳組織によって薫習された法界の一部を時間軸に沿って並べて顕在化(現実化)するからである。
その時ロゴス的知性から見れば潜在化してしまった法界は、けっして無化されたわけではない。相即相入するレンマ的知性から見れば、顕在化も潜在化も共に法界の一部である。そのような二項対立が生まれることすら、法界をロゴス的知性によって切り取ることにより立ち現れるからである。
それゆえロゴス的情報処理を行う人間の脳は、法界の絶え間ない全体運動の中に投げ入れられた「極小のロゴス型観測装置」と言えるのである。

 

2018年5月に読んだ本

 

 

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

 

 

 

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

 

 

 

漱石の疼痛、カントの激痛―「頭痛・肩凝り・歯痛」列伝 (講談社現代新書)

漱石の疼痛、カントの激痛―「頭痛・肩凝り・歯痛」列伝 (講談社現代新書)

 

 立ち寄った古本市の「漱石コーナー」で佇む本書の場違いオーラに引き寄せられ、ついつい買ってしまった。日々の何気ない動作に「痛み」が潜んでいることに脅えさせられる一書である。

 

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

社会や組織を変革する際、その変化が道徳資本にもたらす影響を考慮に入れなければ、やがてさまざまな問題が生じるのは明らかだ。これこそまさに、リベラルの抱える根本的な盲点だと私は考えている。これは、リベラルの改革がたびたび裏目に出る理由を、さらには共産主義者の革命が独裁政治に陥りやすい理由を説明する。また、思うにそれは、自由と機会均等の実現に大きな役割を果たしてきたリベラリズムが、統治の哲学としては不十分な理由を説明する。つまりリベラリズムは、ときに行き過ぎてあまりにも性急に多くのものごとを変えようとし、気づかぬうちに道徳資本の蓄えを食いつぶしてしまうのだ。それに対し、保守主義者は道徳資本の維持には長けているが、ある種の犠牲者の存在に気づかず、大企業や権力者による搾取に歯止めをかけようとしない。また、制度は時の経過につれて更新する必要があることに気づかない場合が多い。(pp450−451)

 

 

 

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

 

 

ネアンデルタール人の脳ではみられなかったような「横断的」な結合組織が~現生人類のもつ新しいタイプの脳では、違う領域の知識を横につないでいく新しい通路がつくられ、それをそれまで見たこともなかった「流動的知性」が、高速度で流れ出したのです。(p57)

 

超越を生む要因とみなされる「流動的知性」、それは「異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能」にし、「隠喩的」思考と「換喩的」思考の2軸を持つ「比喩的」な思考を実現させた(p57)。

 

「比喩的」な思考の能力が得られますと、言葉で表現している世界と現実とが、かならずしも一致しなくてもいいようになり~言葉をしゃべり、歌を歌い、楽器を演奏し、神話によって最初の哲学を開始し、複雑な社会組織をつくりだすことが、いちどきに可能になっていったわけです。(p58)

 

ただ、そのような「流動的知性」の本質をつかむことは非常に困難な営みとなる。「自分の内部に流れ込んできてはまた外に流れ去っていく「流動するもの」」は、「部分的にしか理解」できない(p61)。

かろうじて直観でとらえられた「流動するもの」は、「イメージのもつ具体性がはぎとられて、抽象的な力だけがダイナミックに活動するようになり~、どんな「構造」でもとりおさえることができ」ず、「「構造」を突き抜けていってしまう」ものとして、私たちの内部から「内在的超越」として出現してくる。(p62)

 

さらにはスピリット(精霊、多神教)と、スピリットの上位者である「高神」といった対称性のある神々から、非対称的(絶対的、唯一的)な「GOD(一神教における神)」が誕生してくることになる。

 

 

現代思想史入門 (ちくま新書)

現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

 第1章 生命 

ダーウィン進化論から始まる生物学や、病因を特定し除去する西洋型医療の発展が、人々の「健康」という概念を大きく変えてきたのが現代である

 

臨床医学の真の目的は、眼のまえの個人を、その病気の苦悩から解放することではない。社会の「人口」という全体にとっての公益を実現することである。その病気によって死ぬ病人を統計上において減らすことである。病気の統計的特性を知り、その根本的原因をつきとめて、その社会に病気が生じないようにすること、社会の諸身体の生命活動の総量を増加させることである。(p89)

 

「眼のまえの個人を」救うことよりも「「人口」という全体にとっての公益」を優先することが現代における治療である。統計的データを活用した、年齢性別趣味嗜好成育歴等々のシチュエーションに適した処方箋を与える時の医療者の眼は、決して患者個人に向けられてはいない。患者の背後に見える統計データの各パラメーターが交差するポイントに向けてのみ治療が行われているのである。

ではその統計データは適切なのだろうかといえばそうは言えないのが現状である。

 

結局、机上の判断に影響を与えるのは、統計の取りやすさなのである。医療の現場ばかりでなく、多様な社会問題の現場においてだれが死に近いかを、あるいはだれを隔離すべきかを、だれを強制すべきかを教えてくれるのは、取りやすい統計である。統計が取りやすいか否かが、諸個人の選択や、さらには正義に関わってくるとは、何とも不条理なことである。(pp118-119)

 

現状の技術水準で測定可能な、「喫煙・飲酒の有無」、「栄養摂取の適正性」から「遺伝的要因」に至るまで、現代のいわゆる「健康」に寄与すると言われている諸パラメーターを適正にシフトチェンジするという「机上の判断」を、ほとんど疑いなく患者も医療者も受け入れているという現状が、より人々を狭量にし異物や他者を排除する傾向に追い込んでいるのではないだろうか。

 

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 

 

 

飢餓浄土 (河出文庫)

飢餓浄土 (河出文庫)

 

 

 

ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)

ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)

 

 

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

 

 人は「遺体」から目を背けることができない。家族だろうが赤の他人だろうが、どんなに腐乱し損傷した「遺体」であろうが、今私のそばにいるかつて生きていたであろうその人を弔わねばならないという気持ちを、決して抑えることはできない。

 

そして、故人を弔うためには多くの行為を必要とする。医療的な診断、行政への届け出、親族への周知、葬儀や火葬の手続き。いくら現代が科学主義/エビデンス主義へと加速度的に傾こうとも、テクノロジーの進歩はいつまでたっても「遺体」の適切な取り扱い方を示してくれていない。

 

そんな私たちが「遺体」に対してできることとはなんだろうか?

 

震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めはじめて進むものなのだ。(p262)

 

どんな状況であろうと、「遺体」と向き合う時がいつかはやってくる。どうような視線を向け、どんな言葉を語りかけ、どうやって手を差し伸べたら良いのか、「遺体」は決して応えてくれることはない。ただ「決して応えない」ことを通してのみ、生き延びた私たちに「遺体」は何かを投げかけ続ける。それは社会や環境やテクノロジーがどんなに変化してもおそらく無くなることはないだろう。

 

 

戦場の都市伝説 (幻冬舎新書)

戦場の都市伝説 (幻冬舎新書)

 

 

 

2018年4月に読んだ本

 

ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか

ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか

 

 素朴な疑問を科学と数学の力でユーモアたっぷりに解こうとしたりしなかったり。

今の電気料金の水準だと、(スターウォーズの)ヨーダ(のフォース)は1時間あたり2ドルになる。(p187)

 

フェデックスの輸送機すべてにmicroSDカードを詰め込めば、毎秒約177ペタビット、言い換えれば1日あたり2ゼッタバイトのデータを移送できる。これは現在のインターネット・トラフィックの1000倍に当たる量だ(p249)

 

マグニチュード0

 ダラス・カウボーイズ(アメフトチーム)が全速力で走りながら、あなたの隣人のガレージの壁に激突する。

マグニチュード・マイナス3

 ネコがナイトスタンドの上から携帯電話を落とす。

マグニチュード・マイナス7

 羽根が1枚ひらひらと地面に落ちる。(pp371-374)

これらを含めた多くの思考実験が魅力的なイラストとともに紹介されている魅力的な本。

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

 科学的な数値還元と哲学的な概念還元を駆使し、人間を一つの自然物として記述しようとする自然主義について、様々な思考ツールと具体例を用いて読みやすくまとめられている。巻末の文献案内も至極充実。

 

 

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)

 

 

 原核細胞から真核細胞へ、単細胞から多細胞へ、「他」を取り込み「多」となることで「個体」の生物が生まれ様々な神経組織が発達する。さらには「主体」、「利己性」と「利他性」、遺伝子によって規定された愛からエゴイズムを経て利他的な愛へ

それは二重の超越である。つまり第1に、その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体」の自立化であり、第2にこの「個体」水準の自己絶対化からの自己超越である。(pp37-38)

 

・「利己的な遺伝子」による自分が属する「種」全体に益する行動、遺伝子的な「愛」

 

↓【第1の超越】

 

・「種」から「個」が分離し、エゴイズムによって「主体」を形成する(生存に必要な量を超えて食べる等々、「利己的」な行動)

 

↓【第2の超越】

 

・そうした「主体」を顧みず「利他的」に行動すること、脱遺伝子的な「愛」

 

わずかな部分を抜き書きしてみた。他にもおもしろすぎる論点がいっぱい詰まった本です

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

 

 進化なしの歴史を考えることはできるかもしれないが、歴史なしの進化などおよそ考えられない。進化という概念にはそれが歴史の産物であるという意味が含まれている。生物の進化を研究するとは、その系譜を探ることであり、それはすなわち、祖先の世代から現世代へといたる歴史を跡づけることだ。(p278)

 

ネオダーウィニズムが主流となる現代の進化生物学において検討される生物群は、その進化の果ての0.01%の姿であり、99.9%の淘汰された生物を捨象した要素でしかない。圧倒的多数を誇る淘汰されてきた生物群に目を向けることなしに、進化を語ることは適切なのか、そう著者は訝る。

 

淘汰され絶滅した生物たち、かれらはただ弱いという理由だけで地球上から姿を消したわけではないことを簡単に思い出せる例は白亜紀の大量絶滅だろう。6500万年前、それまで一億年以上も地球に適応してきた恐竜たちが、隕石の衝突という運の悪い環境の変化に適応できずに滅んでしまった。そこでは生物が適応する環境が偶然によって理不尽なまでに変更したことが原因とされる。どんなに環境に適応しようとも、その環境自体のドラスティックな変化が理不尽なまでの絶滅を誘発することを思えば、進化が単に環境に順次適応し、着々と進歩史観的な道を歩むのではないことが想像できるだろう。

 

そうした前提を語った上で、「進化」、「ダーウィニズム」「自然淘汰(適者生存)」といった言葉を一般人/専門家がどう理解し使用してきたのか、その言語観や学説上の論争を辿りながら「進化」という概念の歴史を、淘汰され敗者となり絶滅したものに目を向けながら紡いでいく。それは「祖先の世代から現世代へといたる歴史を跡づけること」によって「進化」を考えようとする著者の試みだと言えるだろう。

 

 

 

愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)

愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)

 

 

贈与の行為には、「贈与されるモノ」とそれを「贈与する人」とそれを「贈与される人」が必要です。そして、贈与されるモノはモノとしての個体性をもち、贈与する人にもそれを受け取る人にも、それなりの実体性が認められるときにだけ、不思議なところの少しもない、モノを媒介にした人格的な価値の循環が発生できるのです。(p54)

 

「贈与されるモノ」「贈与する人」「贈与される人」の三者のうち一つでも、同一性や個体性を失ってしまいますと、そこに神様をめぐる思考である「超越者の思考」というものが、入り込んでくる可能性が生まれてくるようです。(p55) 

 

贈与社会の人々が、この世の富の発生という問題を考えるときに生み出した「純粋贈与」をおこなう力は、多くの場合、流動する霊力として思考されていました。この流動する霊力に対する直観は、大地や自然についての思考と感覚を培ってきたものですが、それがいまや金属の流動体(つまりは貨幣※引用者注)に姿を変えようとしていたのです。(p110)

 

純粋贈与する力の別名である霊は、社会や知の「外」にあるものなので、その霊力のもたらした贈り物はモノとして社会の中に持ち込むことはできても、富や豊饒さの源泉はけっして社会や知の内部に繰り込まれてしまうことはありません。それは、いつまでたっても「外」にとどまっています。

 ところが、貨幣の形態に変態をとげた富は、富を生む源泉をそっくりそのまま社会の内部に持ち込んでしまいます。それまで自然や神のものとして、富の源泉は社会の「外」にあったものなのに、貨幣はそれを社会の内部に運び込んで、いっさいを「人間化」してしまう能力を持つのです。(pp110−111)

 

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

 

 一人の「人間」としての丸山眞男。過ちも葛藤も煩悶も経験し、常にそれらを見据えながら「他者」と対話し続ける、そのような態度の実現を彼は「形式」に託した。

 

人と人、集団と集団、国家と国家が、それぞれにみずからの「世界」にとじこもり、たがいの間の理解が困難になる時代。そのなかで丸山は、「他者感覚」をもって「境界」に立ちつづけることを、不寛容が人間の世界にもたらす悲劇を防ぐための、ぎりぎりの選択肢として示したのである。「形式」や「型」、あるいは先の引用に見える「知性」は、その感覚を培うために、あるいは情念の奔流からそれを守るために、なくてはならない道具であった。(p210)

 

家族、隣人、留置所、従軍、療養所。激動の時代に多様な場所で出会う様々な人びとを他者として理解しようと務めること。「安易な同情の態度を捨て、その人を「他者」として理解しようとしながら、対話を続けてゆく。その過程で、ひるがえって自分自身についても、その「かけがえのなさ」を、驚きをもって自覚すること」を「精神的な自立の最後の核」(p171)とした。

 

そうした、「行動によってリベラルであることを実証してゆくには、どういう選択をすべきなのか」(p115)を問い続けた丸山が戦後に好んで口にしていたのは、ヴォルテールの「私はあなたのいうことに賛成はしないが、あなたがそれをいう権利は死んでも擁護しよう」であり。ローザ・ルクセンブルクの「自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自由である」であった。(pp115-116)

 

他者と対話を可能にする境界に立ち続けること。自由の「形式」を準備し、整え、維持すること。その動的な営みに自らを置くことが自由を実現する道であり、自由を信じたリベラリストとしての丸山眞男であった。

 

どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること、一九四五年八月十五日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追究してゆく営みの、原点となったのである。(p116)

 

 

デラシネの時代 (角川新書)

デラシネの時代 (角川新書)

 

genron-cafe.jp

この放送を視聴し、本書を購入した。

 

放送でも幾度か言及されていた「古典の一回性」、古典が作られた時代を取り巻くコンテクストを捨象して作品を理解することの困難さ、その言い換えともとれる箇所。

 

 これまで五十年あまりの作家生活のなかで、ずいぶん雑多な小説を書きました。自分でも呆れるほどの統一感の無さですが、私自身そのことを負い目には感じてはいません。「雑であること」と「同時代的であること」が、私の物書きとしての初心にあるからです。(p66)

 

雑にズレ続けること、その瞬間を肯定すること、それは安直に結びつけるのが許されるのであれば、著者の敗戦体験(p17~)が原点なのではないだろうか。

 

 戦後七十年経つなかで、様々な事実を戦争体験者が語ってきたように見えます。ですが、おそらく本当のことはほとんど語られていないように思います。(p223)

 

被害体験、加害体験、貧困、差別、国家の崩壊。一回性「過ぎる」が故に体験を語ることの困難さを持つ世代がある。同じ時代を生きた著者は、自己の作品の普遍性ではなく、その同時代性(一回性)を認め肯定する。それはひいては「古典の一回性」へと、連なるのではないだろうか。

 

うーん、うまく言葉にできないな。

 

それと小見出し「二つの中心を揺れ動く」(p132~)で言われている「楕円」というキーワード。昨今ちょこちょこ見かけるようになってきた。よい言葉である。

 

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
 

 印象的だった箇所を2点ほど。

 

一つ目

 

視覚がないから死角がない。~自分の立ち位置にとらわれない、俯瞰的で抽象的なとらえ方です。(p74)

 

 「目の見える人」の自明の前提としてある、背面情報に対する正面情報の圧倒的過多、自分の前面に広がる視覚範囲の情報を、知覚可能な情報の大半として認識すること。この「目の見える人特有のクセ」をもっと馴らし、俯瞰的で(視覚特有の2次元的世界像ではなく)3次元的な世界認識が「目の見えない人」の特徴である。

 

だからこそブラインドサッカーにおいては、「自分の身体が向いている前方と同じように、背中方向にいる後ろの選手の動きもよく分か」り、「後ろへのヒールパスが増えたりする。」(p147)

後ろに対する前の優位性の相対化。

 

二つ目

「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ。と述べました。~「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。(p211)

 

それが差別のない中立的な表現という意味での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。(p204)

 

社会の多くの機能が「障害者向け」に作られていないことによって生じる「障害」は、障害者の属人的な機能欠如ではなく社会の機能欠如である。2011年に日本で公布された改正障害者基本法にはそう宣言されている。

 

であるならば、「健常者」が自己の障害者への視線の定まらない不安定さを恐れるあまり、ポリコレという大義名分に飛びついて「武装」してしまうのはただの現実逃避であって、そうした「健常者」や社会の障害者っぷりを逆照射させるためにも「障害者」という表記を維持すべきだ、と(こんな口調ではないけれど)作者は述べている。

とても賛成です。

 

あとこの「表記問題」は、「インディアンの呼称問題」を思い起こさせる。

 

〈アメリカ人〉「インディアン」という呼び名はアメリカ大陸をインドだと勘違いした我々のミスなので、これからはあなたがたを「ネイティブ・アメリカン」と呼びます!

〈インディアン〉勝手に名付けられ、数百年も呼ばれ続けてやっと馴染んできたのに、そっちの都合で勝手に変えるな!どこまで身勝手なんだ!

 

こんなのを昔どこかで読んだ気がする。

 

 

 

 

神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く (新潮文庫)

神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く (新潮文庫)

 

 「問わず語り」の章が強く印象に残っている。作者のホームページにも、その章は一つの挑戦だったと書かれている。

問わず語り 独白について

物乞う仏陀 (文春文庫)

物乞う仏陀 (文春文庫)

 

 

絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

 

 

感染宣告――エイズなんだから、抱かれたい

感染宣告――エイズなんだから、抱かれたい

 

 

「レンマ学 第3回 レンマ学としての『華厳教』」 中沢新一 群像2018年4月号 走り書き

 

 

群像 2018年 04 月号 [雑誌]

群像 2018年 04 月号 [雑誌]

 

 

 

 

華厳経』において目指されていること、 それは

多くの仏典は、対機説法のやり方を通じて、それを一種の「ロゴス的理性批判」として展開するのであるが、この『華厳経』にかぎっては、レンマ的知性そのものを純粋形態として取り出すという、前代未聞な試みがなされている。 (p254)

 である。

過去/現在/未来に秩序立てられる時間意識や、極小/極大/遠い/近いという広がりを持つ空間意識に拠らないレンマ的知性を「純粋形態」のまま「思弁的に取り出すこと」(p252)。

 

その「形態」とはいったいどのようなものだろうか?

 

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法界縁起の世界

 

華厳経』の描き出す世界像は「法界演技」と呼ばれる。

ブッダが人間の弟子たちに向かって説いた「十二支縁起」では、生命の誕生やそれが体験する苦しみや無明や死についてがきわめて現実的に語られている。それにたいしてこの「法界縁起」では、生命体に内蔵されているレンマ的=縁起的活動そのものを、あらゆる手段を用いて描き出すことが主題となっている (p254)

 

「十二支縁起」がロゴス的知性を用いて「ロゴス的知性批判」を行うのに対し、「法界縁起」においては純粋レンマ的知性を取り出し、それを無限の「楼閣」の幾何学的表象によって表現する。

 

宇宙的な広がりを持つ大楼閣、精妙荘厳に飾られたその内部には無限の楼閣が包摂され、個々の楼閣は固有の響を発しながらその独自性を有している。その全体は調和を保ちながらも各々の楼閣は一切の妨げを受けることなく相互にコミュニケーションをしている。

そうした「法界縁起」においては、

一つの楼閣の中に立っていると、他のすべての楼閣の中にも自分の姿を見ることになる。どんなに微細な楼閣に起きる出来事も、すべての楼閣に瞬時に伝わっていき、楼閣の集合のそのまた集合へと、この出来事の情報は知られていくことになる。(p255)

 

そして相互コミュニケーションの結果、個々の響が影響し合い生まれた「ゆらぎ」は、楼閣内部に「微妙に構造を変化させても、全体の調和は保たれていく。」(p255)

 

このような法界縁起を説法によって伝えていく菩薩は、そのレンマ的な知性のあり方をロゴス的な言語に還元する「翻訳」を迫られることになる。

 

人間の言語は一定の「句構造」を規則/不規則に並べる「線型性」言語であるが、当然レンマ的知性においては「非線形的で、句構造をもたない」。無限の「楼閣」の広がりを維持したまま、「人間の理解する言語の構造に到達するまで」「説法という形を通して真理の伝達がおこなわれる」ためには、幾度もの「翻訳」が必要となる。(p256)

 

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人間の可能性としての菩薩

 

 このような法界に、たくさんの菩薩が住んでいる。菩薩は人間であるから、わたしたちと同じ感覚器官や脳組織を持ち、線形的な句構造を深層構造とする言語を使って経験を秩序だて、それを使って他の人間とコミュニケーションしている存在である。(p257)

 

布施/戒律の遵守/忍辱/精進/禅定/プラジュニャー(智慧)の六波羅蜜を備えた者すなわち菩薩を理想と掲げる大乗仏教によって示されるのは、「心(脳)」の中においてレンマ的知性の活動を表面に引き出して活動させる可能性」であり、「人間は誰でも菩薩となる可能性が宿されていることになる」。(p258)

 

 

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 つながりの言語

 

レンマ的知性はロゴス的知性を否定することなくその拡張系である。「むしろロゴス的知性の得た知見の数々の意味を補完し豊かにすることができるのである」。(p259)

 

その探求は心の原基的実態の様態である「法界のスパチウム(原空間spatium)」と呼ばれる。

法界スパチウムの内部では〜すべてのものが相互相関し〜語と語の隠喩的・換喩的結合が起こるようになる。そうするとそれまでの指示機能中心であった言語が「表現機能」を持つようになる。この表現機能を備えた言語を使って世界をあらわすと、〜世界は全体のつながりとして捉えられるようになる。(p260)

そのつながりが「感情を含んだ表現」や「芸術的なもの」を生み出していき(p260)、それらを含めた総合的な「真の人間学を創り出すためには、レンマ的=縁起論的な原理によって作動する法界スパチウムの実在を前提にする必要がある」。(p261)

昨今の人工知能の発展が逆照射する人間的知性の特異性は、法界スパチウム抜きに語り得ないと言うこともできるだろう。

 

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短いまとめ

 

 法界縁起で例えられた、「すべてが影響し合っている世界」のイメージを頼りに、指示機能が中心の言語使用から表現機能が中心のそれへ。切り分けるロゴス的世界からつながりあうレンマ的世界へ。そこでは芸術や詩といった「感情を含んだ表現」が可能となり、ロゴス的言語使用のみを凝縮した現代の最新AIでは未だ踏み込むことのできない領域と言える。

 

 

 

 

 

3月に読んだ本

 

 

増補新版 ポスト・モダンの左旋回

増補新版 ポスト・モダンの左旋回

 

 論文集。なかなか硬派な内容には通奏低音として、「マルクス哲学」の忘却、責任主体の不在が現代のポストモダニストの、かつて彼らが批判していた前時代的政治行動への再帰を促している→つまり左旋回、というかんじ、かな。

 

古代文明に刻まれた宇宙―天文考古学への招待

古代文明に刻まれた宇宙―天文考古学への招待

 

 天体観測の基礎から始まり、数千年規模での天体の移動、古代世界の遺跡等から見いだすことのできる天文学的裏付け又は従来の説の見直しなどなど。あとがきにも書かれているように、この書籍を基本テキストに据えた天文考古学の歩みがこれから始められることを是非とも期待したい。

 

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

 

 個別的な思考のネアンデルタール人から、流動的思考のホモ・サピエンス・サピエンスへ。隠喩・換喩を含む詩的な言語を獲得した人間は神話的思考のもと、自然との対称的関係を数万年間維持してきた。ところが、自然からテクネーによって取りだされた「食人的」な自然の力を手にし、辺境/非権威な存在であったシャーマン・戦士.・首長を融合させた一人の「王」が現れることで、「クニ」が生まれ、自然に対する非対称的な搾取が始まった。

それまで、対称性社会では「文化」と「自然」は異質な原理として、できるかぎり分離されていました。ところが、「自然」のものである権力=力能を社会の内部に持ち込んだ王のいる世界では、このような分離は不可能となります。王自身が「文化」と「自然」のハイブリットなのですし、クニの権力もハイブリッドを原理として構成されるからです。このハイブリットな構成体にあたえられた名前こそ、「文明」にほかなりません。(p201)

 

自然における人間との対話者である熊や鮭、高度に発達した帝国であった古代インドの内部に誕生した対称的関係を内包する仏教思想、これらは「神話的思考」、「野生の思考」との強い連関の元、変奏を重ねながら現代を生きる私たちにも強い影響を与え続けている。

 

 

二〇一四年に台湾で学生たちが立法院を占拠した「ひまわり学生運動」があって、その半年後には今度は香港で「雨傘革命」のデモがあって、その半年後の二〇一五年にはSEALDsのデモが始まった。そして、一六年には韓国で一〇〇万人のデモがあった。台湾、香港、日本、韓国と半年おきくらいに学生たちを含む大きな街頭活動があった。これは偶然ではないと僕は思います。(pp172−173) 

これらをひとつなぎで捉えるのは市民活動にとってとてもプラスになるという意味で、未来に向けてこの時期の総括は意義があるなとなんとなく思う。

 

 

生物圏の形而上学  ―宇宙・ヒト・微生物―

生物圏の形而上学 ―宇宙・ヒト・微生物―

 

 生物はどのような形態をしどこに生息しどのように進化してきたのか。火星には、木星の衛星「エウロパ」や南極の氷床下湖には生物はいるのか、ポストヒューマンを考えるためにはホモ・サピエンスに至るまでの“プレヒューマン”を考えてみてはどうか、微生物の“小ささ”の適切性、といった生物学エッセイが読みやすくまとめられていた。

 

 

波紋と螺旋とフィボナッチ

波紋と螺旋とフィボナッチ

 

 生物界に現れる波紋、螺旋、フィボナッチ数列の影。それらの妥当性とトンデモ性をくだけた文体で解説する一書。「ジンクピリチオン効果」(無内容かつインパクトのあるワーディングで読者の目をひいてしまうこと)を解説したコラムは理系世界あるあるが実は文系的現象だった的なかんじで汎用性が高そう。

 

 

「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち

「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち

 

 ついつい何日も考えてしまった。近代以降の人類は、このようなケースには「啓蒙」が必要だとしてきたのに対し、古くからの人類のそれはもっと別のかたちだったのだろう。

 

レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち

レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち

 

 内容については頂けない部分もあるが、この本がインドのムンバイ地域で経済発展から零れおちていく人びとの貴重なドキュメンタリーであることに変わりはない。

 

ハイデガーと生き物の問題

ハイデガーと生き物の問題

 

 現存在として世界に「開け」ていること、「形而上学の根本諸概念」を動物論/生物論として読み解くときにみえてくる人間(現存在)とはなにか、多くの示唆が示されている。