2018年9月に読んだ本

 

 

 

奥のほそ道

奥のほそ道

 

 

誰かを/何かを評価をしたり善悪を決めるためには、自分とは無関係の「対象」でなければ難しい。もしその「対象」と距離が近づけば、そうした価値付けは暴力的に見え意味を失う。

本書で貫かれているのは人に「寄り添う」ことである。

誰かの行動も思惑もセリフでさえも、差別化されることなくその人に寄り添いながら淡々と綴られている。

時の流れとともに環境は変わり、仲間が変わり、時代が変わる。無常の世界に生きる人々の傍らで、後世の人が当てはめた「評価」や「善悪」を取り払って人生が、物語が、ただ語られていくのである。

 

好きな一節を引用する。

数十年の時が経つだろう。記憶にとどめることが重要だと考える人々によって線路の一部から草が刈り払われ、それはやがて幹のない根のように奇怪に蘇るだろう―観光地、聖地、国の史跡として。

線路は、すべての線路がいつかは壊されるように壊された。すべてが水泡に帰し、なにひとつ残らなかった。人々は意味と希望を求めたが、過去の記録は泥にまみれた混沌の物語だけだ。

涯もなく埋もれたその巨大な残骸、荒涼として彼方へと広がる密林。帝国の夢と死者の跡には、丈高い草が茂るばかりだった。(p309)

 

 

※追記

第五回日本翻訳大賞に個人的に推薦したときのコメントを追加しとこう

 

「美しい装丁に包まれた慎ましやかな文体は、どこまでもその時代を生きた人とその人生に寄り添いながら、後世の勝手気ままな解釈をそっと振りほどいてしまう。今を生きる私たちにとって最も近く、そして最も語られてきたであろう20世紀という時代を、「戦争の悲劇」というあまりに画一的な理解のもとに据えること、そんな想像力の極端な限定から逃れる方途を『奥のほそ道』は示してくれている。」

 

 

 『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を概観しながら善と悪についてのカント哲学の見取り図をさっと見ることができる読みやすい一書。

 

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

 

 知能や犯罪傾向は遺伝なのか、経済格差はなぜ生まれるのか、見た目の差は人生にどう影響するのか、親の教育は無意味なのか。

こういった問題を考える時に陥りがちな、「薄々思っているけど言ってはいけないから抽象的な/諺のような言い回しで説明する」案件の数々を、実証された科学的知見を駆使して説明していく。その中には「薄々思っていたこと」通りのこともあればそうでないこともあれど、一般市民的常識から大きくズレていることには変わりない。

著者の主張は一般市民的常識、言い換えれば神話的に凝り固まった私たちの認識を是正しないことには、「人権」や「平等」といった理念の実現はまだまだ難しいというところにある。新書でこの内容が読めるのはとても良い反面、現実の社会を見るかぎり、その道のりはまだまだかかることだろう。

 

 

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

 

 人間の理性が進化生物学的にどのような過程を経て現状にいたったか。有名な心理・認識・論理テストを交えながら、各章コンパクトにまとめられていてとても読みやすい。

 

極限世界のいきものたち

極限世界のいきものたち

 

 生き物愛がたっぷり詰まった本書はどこから読んでも面白い。気になる生き物は写真をググりながら読んでました。

 

進化とは何か ドーキンス博士の特別講義

進化とは何か ドーキンス博士の特別講義

 

 平明な文で進化生物学の「考え方」が読める本。(露骨な宗教批判を除けば)中学生でも読める楽しさに満ちている。

 

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

 

 考古学的証拠が唯一の頼りとされてきた先史時代の解明に、神話や言い伝えを適用してはどうか?というのが本書の主たる主張である。その主張の有効性を示すために使われるテクストが、プラトンの「ティマイオス」である。

 

プラトンが語る神話的過去を、物的証拠や宗教的な痕跡と照らし合わせてみると思った以上の一致が見られる。これは曖昧な先史時代の認識に対する現状において、数少ない有力な仮説となるのではないだろうか。

 

この手法が洗練された将来の考古学は、多様な学問を相互参照する学際的な知が行きかう場となる可能性を秘めている、という点で非常に豊かな未来を感じる本である。

 

 

 承認欲求という病から抜け出すべし!というメッセージが詰まった本。著者の別の本を読んで論理的には納得できても感情的に納得できない=西洋文明を相対化できない人には良き入門書となるのではなかろうか。

 

 

バルセロナ、秘数3 (中公文庫)

バルセロナ、秘数3 (中公文庫)

 

 

 

 

 

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

 

 

 

 

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

 

 

「レンマ学 第7回 レンマ的無意識(2)」 中沢新一 群像2018年8月号 走り書き

 

 

群像 2018年 08 月号 [雑誌]

群像 2018年 08 月号 [雑誌]

 

 

①「逃れなければならない場所」としての「無意識」

②主体なき身体

③分裂的無意識

④曖昧な対称性無意識

⑤レンマ的心理学=対称性+非対称性

 

ーーーーーーーーーー

①「逃れなければならない場所」としての「無意識」

 

 統合失調症や夢に見出せる無意識を研究した西欧心理学に対して、大乗仏教では瞑想によって「分別的思考を停止させ」レンマ的な心的構造/無意識を観察した。(p269)

 

レンマ学はこの二つの無意識を一つの法界(一心法界)のうちに統一して、心理学に新たな次元を開こうとするものである(同)

 

そして、改めてレンマ学における人間の意識の発生過程が説明される。

 

純粋レンマ的知性=レンマ的無意識=如来蔵は、法界として相即相入しあう縁起の論理で満たされている。因果律や線形秩序といったロゴス的なものが現れることのないレンマ的無意識に「転形」を引き起こすのは、「時間性の侵入」である。

 

時間性が入り込むとき、〜如来蔵はアーラヤ識への転形を起こすのである。それまで無分別として活動していた知性が、自分の内部に分別的知性の働きを抱え込むようになるわけである。(p270)

 

アーラヤ識とは「レンマ的知性とロゴス的知性の混合体」(同)であり、理事無碍法界でありフロイト的無意識に相当する。

 

法界としての心の活動のうちで、意識の占める領域は意外なほどに小さい。意識は人類がいま用いている言語の構造にしたがって、アーラヤ識に生まれてくる。しかしこのアーラヤ識そのものは、法界に内蔵された「理事無碍法界」の様態がつくりだす法界の一部分にすぎない。さらにそのアーラヤ識の一部分が、言語と意識を生み出しているのである。したがって法界としての心は、言語や意識に汲み尽くされることのない、複雑で巨大な活動体と考えられる。(p269)                                           

 

ここで一応注意したいのは、純粋レンマ的知性から分離した人間意識におけるロゴス的知性はレンマ的知性でもあるということである。アーラヤ識はあくまで「混合体」でありそこには法界を満たすレンマ的知性が確かにある。「純粋レンマ的知性から分かれて純粋ロゴス的知性が現れる」という発想そのものがロゴス的偏りで構成された認識なのである。

 

混合体としての特性をもっともよく表現し、かつ現実に働かせているのが、言語にほかならない。〜言語は事物を線形的に並べて秩序づける統辞法(シンタックス)というロゴス機能と、メタファーやメトニミーの〜レンマ的機能との、バイロジック(複理論)的な組み合わせとしてできている。(p270)

 

人間の意識は、時間性の侵入によって転形したロゴス的知性が常にその発生元であるレンマ的知性に影響を受けていることになり、「(後期ウィトゲンシュタインの語ったような)限界を抱えることになる」。(p271)

アーラヤ識におけるレンマ的知性の働き(フロイト的無意識)によって限界づけられたロゴス的知性を「補うべく人間はAIを発達させてきた」。現代のAIにおいて実現されている知性はまさしく「ロゴス的知性を単独の状態で機能させ」ているからである。盤面のように区切られた有限のゲームの内で最も効率的な一手を選択する、これぞレンマ的知性を排除した「単独の状態」と言えるだろう。(同)

 

しかしそのとき、ロゴス的知性の厳格な運用〜と引き換えに、〜ロゴス的知性の母体でもあるレンマ的知性の宇宙との連絡を失っていく危険を抱え込む〜。そのような事態は回避しなければならない、とレンマ学は考える。そのためには一心法界における無意識とロゴス的知性の占める場所を、縁起の理法=レンマ的知性との関わりにおいて正確に定位しておかなけれならない。(同)

 

ーーーーーーーーーー

②主体なき身体

 

法界としてある心には、(一)事法界(⑵)理法界(三)理事無碍法界(四)事々無碍法界という4つの「様態」が見出せる。「このうち理法界と事々無碍法界がもっとも純粋レンマ的知性に近い動きを示」し、時間性が介入すると「分別と認識にかかわる事法界と理事無碍法界」が表面化する。(pp271−272)

 

 西洋の知の歴史において、「脳と中枢神経系が高度に発達」した影響が強く表面化し、ロゴス的知性こそが「知性の本質をなすものと長らく考えられていた」。そのような「「迷信」を打破」したフロイトが明らかにしたのは、人間の意識は無意識との「協働」で活動しており、「この無意識はレンマ的論理にしたがって」いるということである。(p272)

 

それゆえラカンが語った〜「無意識は言語のように構造化されている」〜をレンマ学によって言い換えれば「心理学があきらかにしてきた無意識は、理事無碍法界の様態によって活動する純粋レンマ的知性としての法界である」ということになる。このことを『大乗起信論』では唯識論の言うアーラヤ識に充てている。(同)

 

このようなアーラヤ識=フロイト的無意識を含むレンマ的無意識の特徴は「機械状、流体力学状」であるとされる。(p273)

例として機械仕掛けの人形を想像しよう。人形の内部には細かなネジや歯車が機械状に組み合わされ、一つの部品の運動が次の部品の運動へと流れるように連鎖してゆく。その総体として現れる人形の手足の動きはとても人間らしいにもかかわらず、「その動きを作り出している部品一つ一つの動きは、少しも「人間的」ではない」。(p272)

 

レンマ的無意識の活動もそれに似て、少しも人間的ではなく、機械状のクールな運動を示す。そこにはなによりも「主体」がない。(同)

 

「機械状」において重要なのは、この「主体」がない点にある。

 

「インドラの網」に喩えられる法界中の諸事物は、相互に〜自在(無碍)に影響を及ぼしあっている。網の目の交差点に主体の「芽」が生起するが、〜相即相入を受けることによって、別の形態への変化を起こし、〜レンマ的無意識には「同一性」がつくられない。そのため対象世界から分離した主体というものが、存在することができないのである。(pp272−273)

 

そのためフロイト精神分析学での、無意識にたいする「強い性的な意味づけ」や「オイディプス化」といった解釈が無効となる。

そしてフロイトラカン的無意識に依拠することなく、その「外側」を指向したドゥルーズ/ガタリが、「無意識には主体がない」「欲望は無意識において機械状の運動を続行している」と言うとき、「強固な同一性を備えた主体をつくりだそうとする西欧的思考の伝統を食い破って、その外に出ていこうとしていた」ように見えるのである。(p274)

 

 

ーーーーーーーーーー

③分裂的無意識

 

フェリックス・ガタリ統合失調症分裂病)の症例から無意識を考察する方法論を「分裂分析」と名付けた。それにならい「統合失調症があらわにする無意識を「分裂的無意識」と呼ぶ」と、それは大乗仏教における「法界」と直結しながら運動している。分裂的無意識を治療対象とした西欧心理学と違いレンマ学は、「むしろ心の本性を探る貴重な存在」として見るのである。(p275)

 

私たちは統合失調症を通じて、生のままの状態にある無意識が、人間の心の奥から浮上してくる光景に立ち会うことになる。〜〜それは必ずしも崩壊であるのではなく、まだ人類が理解できていない無意識への突破口を示しているのである。(p276)

 

ーーーーーーーーーー

④曖昧な対称性無意識

 

次にチリ出身の精神医学者イグナチオ・マテ・ブランコが紹介される。

ガタリの機械状無意識の概念と並んで、われわれのレンマ学に多くの重要な知見をもたらしてくれる」のは、彼の「対称性無意識」という概念である。(p280)

 

数学や自然科学といった学問領野由来の「対称性」という言葉は、「群論」を創造したガロアは「曖昧性」とも呼んでいた。

これは例えば、

𝒙²-1=(𝒙+1)(𝒙−1)=0

という数式において真ん中の+1と−1を入れ替えても等式が成り立つ、という場合にそう呼ばれていた。

これを言語で再現しようとすると、

「ローズはメアリーの母親であるRose is the mother of Mary」

という文が

「メアリーはローズの母親であるMary is the mother of Rose」

となり、これぞ「『不思議の国のアリス』の思考法であるが、これこそ無意識の住みついている領域の思考」、つまりは「対称性無意識」の思考である、とマテ・ブランコは考えたのである。(p279)

 

日常生活を律しているのは「非対称性」の思考である〜分別の機構(ロゴス的知性の機能)から生じる。私たちはすでに人間の分別の機構がニューロンのおこなう「分類」の過程から出発して、言語の統辞的構造が可能にする意識的思考までを〜見てきた(p278)

 

対称性が働きだすと、ロゴス的知性のつくりだしている「全秩序total order」の構造は壊れてしまう。(p279)

 

「過去・現在・未来という時間の線形秩序」が壊れることで、「時間の中で起こる空間的な場所の置き換え」である「運動そのもの」も失われ、「「部分」と「全体」が同等に扱われる」ことで数字の7が数字の「部分」でありながら「全体」=無限でもありえてしまう。「統合失調症ではこのような〜認識が、生のあらゆる側面に適用されていくことになる」。(p279,280)

 

マテ・ブランコが「対称性」として取り出した〜これらの特徴を見ると、その背後にレンマ的知性としての法界が活動していることをはっきりと示している。(p280)

 

ーーーーーーーーーー

⑤レンマ的心理学=対称性+非対称性

 

大乗起信論』によって分析された「無意識」=アーラヤ識は「レンマ的知性とロゴス的知性の混合体」としてある。

マテ・ブランコも、「本来の無意識である「対称性」と、ロゴス的機能を備えた言語的・意識的な「非対称性」」との「二重論理ないし複論理(バイロジック)」であるとした(p280)

このバイロジックのバランスが「対称性」に傾いてしまった状態に「統合失調症の世界認識が発生する」ことになるのである。(p281)

 

レンマ学的心理学はその全過程を、西欧的心理学とは逆の方向から探求するのだと言えよう。レンマ的心理学が生成過程から現実を観察する「胎生学」的な科学であるとすると、西欧的心理学は死や解体を頂点として現実を観察する「臨床の医学」(ミッシェル・フーコー)である。しかし二つの心理学はたがいに反対の方向から〜普遍的な人間性の探求という同じテーマに向かって、たがいを豊かにする相互補完的な関係を持つことになるであろう。(p282)

 

 

 

 

2018年8月に読んだ本

 

偏食的生き方のすすめ (新潮文庫)

偏食的生き方のすすめ (新潮文庫)

 

 一年間の日記の端々に否応なく現れる「偏食的」な生きざま。

安定の面白さ。

 

 

イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)

イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)

 

 

 

 

 

 

 

悪党的思考 (平凡社ライブラリー)

悪党的思考 (平凡社ライブラリー)

 

 中世にいたるまで日本の権力者であった天皇は「「法治するする王」と「魔術王」とで表現されるような二重性をもって」いた。(p37)
新興勢力である鎌倉武士や「織田信長のような近世的なタイプの権力空間をつくりあげようとした人」は法治する王としての振る舞いに特化することにより、価値の揺らぐ不安定で流動的な力を「制度」の中に取り込み/切り分けていった。(p31)

 

 

蜜の流れる博士

蜜の流れる博士

 

 

 

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

 

 

「テクニウム」とはテクノロジーの持つ性質のことを指す著者の造語である。その性質とは、エントロピーの減少(秩序の形成)が「テクノロジー」として構築され、しだいに収斂進化・先鋭化し世界に偏在化していくという特徴を持つ。そしてその対象は現代社会で通常使われる科学的なテクノロジーに留まらず、人類の知恵、宗教、生物学的適応、はたまたビッグバンや恒星や銀河の生成なども含むまさしく「宇宙の始まりから全て」である。

 

以下、適当な抜き書き。

 

我々の遺伝子は、われわれの発明とともに共進化を遂げた。遺伝子の進化の平均的な速度は過去1万年だけに限っても、それ以前の600万年の100倍に達している。  (p47)

 

これは野生動物の家畜化や農耕化というテクノロジーによって引き起こされた生物学的変化である。

 

つまり道具を作り直したとたん、それがわれわれ自身をも作り直していた。われわれはテクノロジーと共進化してきたので、それに深く依存するようになった。もしナイフや槍などのすべてのテクノロジーを地球上から取り除いてしまったら、人類は数ヶ月しか生きられないだろう。そして今では、テクノロジーと共生しているのだ。(p46)

 

テクノロジーが支配的なのは、その出自が人間の知性に由来するからというより、銀河、惑星、生命、知性を存在させることになったのと同じ、自己組織化という期限を持っているからだ。テクノロジーとはビッグバンのときに始まった非対称な弧の一部であり、時間が経つにつれてますます抽象的かつ非物質的になっている。その弧は、物質とエネルギーというはるか昔の規則からの、緩慢だが不可逆的な解放なのだ。(p83)

 

そのようなテクニウムが起こすある必然性の例として↓

 

どんな分野のどんな種類の発見でも歴史を深く掘っていくと、第一発見者を主張する人が複数いる。実際のところ、新しいことには多くの生みの親がいるものだ。太陽の黒点は1611年に、ガリレオを含む2人どころか4人によって別々に発見されていた。温度計を発明した人は6人いたし、皮下注射針は3人だ。エドワード・ジェンナー以前にも、種痘の効果を発見した4人の科学者がいた。アドレナリンが「初めて」分離されたことも4回あった。(p153)

 

同じような発明が独立して同じ時期に起きることがよくあることからわかるのは、テクノロジーの進化も生物の進化と同じように収束していくということだ。もしそうなら、歴史のテープを巻き戻して再度実行すると毎回、まるで同じ発明の過程が繰り返されることになるだろう。テクノロジーも必然なのだ。さらに形態学的な原型が現れることからわかるのは、このテクノロジーの発明には方向性や傾向があるということだ。その傾向とは、発明した人間からは独立したものだ。(pp154-155)

 

テクノロジーの発展にはある「方向性」があり、ある方角へ「収束」していくという必然性を孕む。

と、

 

既存のテクノロジーがあるひとつの社会の中に混ざり合って積み重なることで、休むことなく潜在力を増大させる過飽和の母体が作られ、そこに正しいアイデアがタネとして播かれると、水が凍って氷の結晶になるように、必然的な発明がまさに堰を切ったように形を成す。しかし科学が示すように、水が十分冷えれば氷の結晶ができるのが運命ではあるが、どのふたつの雪の結晶も同じにはならない。水が凍るという道は事前に決まっているものの、その表現には大きな自由の余地があって、そこから美が生まれる。個々の雪の結晶の実際の形は予測不可能だが、その六角形の原型は事前に決まっている。こうした単純な分子でも、或る条件の下にできる形の多様性は際限なくあるのだ。そしてこのことは、今日の極度に複雑な発明にもあてはまる。白熱電球、電話、蒸気機関の結晶にあたる形は決まっているものの、それらの実際の形には進化環境によって何百万もの可能性がある。(p176)

 

 

 

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

 

 

 

 

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

 

 

 

大森荘蔵セレクション (平凡社ライブラリー)

大森荘蔵セレクション (平凡社ライブラリー)

 

 

科学的世界認識は「世界は人間の知覚とは独立である、という単純だが強力な哲学」に動機づけられている。(p314)

この原理は、人が見ていようといまいと、目覚めていようといまいと、生きていようといまいとに関わりない世界描写を要求する。~このことは、日常言語の殆どすべてを禁句にすることを意味する。日常言語の殆どすべては相貌語(走る、動く、等)であり、知覚性質語(赤い、丸い、静か、等)であるからである。(pp314-315)

「幅の無い線、拡がりのない点」によって描写される世界像は、人間の「知覚的形状は必ず或る視点(距離、角度)からの形状であるのに対して、幾何図形は視点を持たない。無視点なのである」。(同)

 

このような視点が導くのは目の錯覚や鏡像として知覚される対象と科学的にあるべき姿の乖離、「実物ー像」の剥離である。歴史上多くの哲学者によって議論されてきたこの二元論に対して著者が提示するのが「立ち現れ一元論」なのである。(p224~「ことだま論」を参照)

 

また、個人的にはこういう文章が好きというかいいなあとしみじみ思う今日この頃。

果たして、四つの直線が四つの角を作りながらしかも或る一点から等距離にあると想像することは不可能なのだろうか。また多くの人は赤外線の色や超音波の音色を想像することは不可能だが、公園の樹木とか、眼前の机の後姿を想像することなどは何でもないと言うだろう。その人びとはまた誰それはあんなことをしないでもよかったのにと気易く言うだろうが、ある事を現にした人間をそれをしなかった人間として想像しているのではあるまいか。ヴィトゲンシュタインが、我々は不可能なことを思うことはできない、と言うのは正しいであろう。だが困ったことに、我々は不可能とはどういうことなのかを明確に思うことができないのである。(pp336-337)

 

 

 

「レンマ学 第6回 レンマ的無意識(1)」 中沢新一 群像2018年7月号 走り書き

6

群像 2018年 07 月号 [雑誌]

群像 2018年 07 月号 [雑誌]

 

 

後半をうまくまとめられずざっくり図式化してしまった。

 

 

短いまとめ

 

西洋心理学(ロゴス的知性)の無意識をレンマ学用語を使うことで改めて規定し→①ロゴス的無意識

さらにレンマ的無意識の特徴を5つ挙げ→②レンマ的無意識

ロゴス的知性では到達不可能だった領域がレンマ学の学問対象となることが宣言される。→③レンマ的心理学へ

 

ーーーーーーーーーー

長いまとめ

 

①ロゴス的無意識

 

過去ー現在ー未来 という線形秩序(時間性)によって規定された言語=ロゴス的知性。このような知性のもと発展してきた西洋の心理学において語られる「無意識」、それは「ロゴス的知性の側から捉えられてきた心的実態の可能的描像に過ぎない」。(p304)

 

言語=ロゴス的知性により「捉えられた現実が「意識」と呼ばれ」、「意識によらない心的活動のすべてが無意識として取り出されてきた」のである。(p304)

 

 

では、「レンマ学における無意識」とはなにか?

 

その前に、そもそも、言語・意識とは何か?

 

 

(a)まず「言語」は、「「分別」をもっとも重要な働きとしている」 (p305)ことから

  👇

「事法界」的な様態

 

(b)その「言語」が機能する前提として、事物を「分別」するには「分類」が必要であり、「分類」をするには、事物間での「同一性が見出されていなければならない」ので

👇

「理法界」的な様態

 

(a)(b)から、レンマ学においては「言語は、法界における「理事無碍法界」の様態を含んでいる」ことがわかる。(p305)

 

人間の言語活動における「理事無碍法界」、それは「喩の過程」が起こることと深く結びついている。

 

人類の言語ではこうして分類されたカテゴリーにさらに二次的、三次的・・・な分類が加えられ、分類されたカテゴリーの間に理法界が働くことによって、前の段階の分類では「違うもの」と分けられていた項目同士が「似ている」として結合されていく、「喩の過程」が起こるのである。(p305)

 

これこそ「法界縁起の理法そのものである「相即相入」」であり、

ロゴス的(事法界的)要素とレンマ的(理法界的)要素を含みもった、

「言語」(理事無碍法界)こそが「人類に「意識を」もたらす」のである。(p305)

 

人類の心に発生した意識が 〜以上のことからもよくわかる。言語は事法界に適合した構造を持っているから、ニューロン系による情報処理に最適な機能をもたらすことができる。しかし同時に、この言語は理事無碍法界にも開かれ〜、ロゴス的機構の内部には、たえまなくレンマ的知性の働きが無意識として侵入し、そのたびに記号論的機能は揺らいだり、客観的情報処理の進むべき道からは逸脱させられたりすることになる。つまり、人類の言語は理事無碍法界の能力に開かれているおかげで、意識には無関係な心的領域、すなわち無意識に「道を開いている」わけである。(pp305ー306)

 

「道を開いている」という表現はフロイトの「通道 Bahnung」という概念からきており、ラカンは言語活動における「喩の過程」が「通道」の実現だと考え、「そのことを「無意識は言語のように構造化されている」と表現した」。(p306)

 

 

ーーーーーーーーーー

②レンマ的無意識

 

 『華厳教』と『大乗起信論』によって示された、一心法界としてのレンマ的無意識は以下の4つの特徴を持つ。

 

(一)「無分別知性(レンマ的知性)と分別知性(ロゴス的知性)の混成体」であるアーラヤ識、その「アーラヤ識を包摂する純粋レンマ的知性体としての「如来蔵」でも、レンマ的無意識の活動が続けられている」。(p306)

 

フロイト精神分析学における「無意識」は分別知性(ロゴス的知性)とともに混成体を成す無分別知性(レンマ的知性)のことを指しているが、「それよりもさらに大きな無意識が、心=法界の全域で活動している」。(p306)

 

フロイト的無意識と区別するために、言語に捕獲されていないこの真正な無意識のことを「レンマ的無意識」と呼ぶことにする(p307)

 

(二)フロイトラカン精神分析学や構造主義が捉えていた無意識は「言語構造を介して時間性の侵入が果たされている」、「アーラヤ識に組み込まれたレンマ的知性」であるからこそ、「無意識は言語のように構造化されている」と言うことができた。(p307)

 

(三)「レンマ的無意識は一心法界のすべてを覆」い、「心の表層にも中層にも深層にも偏在している」(p307)

 

「ロゴス的知性の生産物」である「発話の中を、思考の中を、造型されたイメージの中を、まるで「かすめ通る」ようにして」レンマ的無意識は姿をあらわす。だからといって、その「不規則な足取りを追って、そこから一つの因果性の物語を織り上げる分析の手段は、真正の無意識にたいしては使用することができない」。(pp307-308)

 

(四)

夢の語法のうちに、レンマ的無意識は深い痕跡を残す。夢はイメージの圧縮と置き換えをおこなう。このイメージの圧縮と置き換えに深く関与しているのが、法界縁起を貫いている相即相入の原理である(p308)

 

このような相即相入が言語の統辞法に侵入すると、「喩的構造」(メタファーとメトミニー)がつくられ、そのような言語体によって「時の飛躍の光景を再現するために、最初の芸術である詩が誕生した」のである、(p308)

 

ここで、フェリックス・ガタリの「機械状無意識」という概念を導入する。

 

レンマ学の用語を交えてこの概念を説明するならば、「相即によって「部品」の移動と圧縮がなされ、相入によって「部品」間での力の交通がスムーズに進行する」「まるで巨大な機械仕掛けの全域で続けられていく」ような状態をさし、この場合の「部品」とは時間軸上にあらわれる事法界的な事物であり、その「部品」のそれぞれが時間を逆行したり飛躍したりしながら相即相入し合っているレンマ的無意識と強く結びあっている。

 

(五)

純粋レンマ的知性の働きである理法界の様態は~抽象化の能力をあらわす。~事法界にあらわれる差別と分別の相に「流れ込んで」、差別を平等化し、分別を無分別化する。それはあたかもなにか知的な流動体が分別壁を自由に(無碍に)乗り越えて、それまで分別によって分離されていた領域やカテゴリーをひとつにつないでいくようである。

~華厳教ではこの流動化が自由(無碍)の本質であると考えている。(p309)

 

ーーーーーーーーーー

③レンマ的心理学へ

 

「ロゴス支配的な文明の中で生み出された、最高レベルに属する人間理解」(p314)であるフロイト精神分析学における「快楽原則」をレンマ学の見地から検討する。

 

以下の図は(フロイト的)無意識と(フロイト的)意識を二軸に、それぞれにロゴス・レンマの用語を当てはめてみたものである。

 

        (事法界)

      ↗ (ロゴス)↘

一次過程】⇄⇄通道⇄⇄【二次過程

   |   ↖   (レンマ)↙    |

   |       (理法界)        |

   |            |

   |            | 

・理事無碍法界       ・事法界

・(フロイト的)無意識     ・(フロイト的)意識

・快楽原則         ・現実原則

 

 

「もの das Ding」から「快楽」をもたらす「快楽原則」

         ☟

その運動全体がレンマ的無意識(理法界及び事々無碍法界)であり、

ロゴス的意識(事法界及び理事無碍法界)からは不可視の領域となる。

 

ロゴス的意識で構築される「文化」は「快楽原則」を抑制するが、

大乗仏教と歩を同じくフロイトは、「快楽原則」が「快楽」と「善(幸福)」を作りだすと考えたため、『文化への不満』へとつながることになる。

 

これにたいして大乗仏教はレンマ的無意識をとおして、マクロコスモス(神々と宗教の領域)とミクロコスモス(人間心理の領域)の構造を規定してきた人類文化の限界に挑戦しようとしたのである。~大乗仏教は、「文化への不満」へとたどり着いていくフロイトの思想が、根源的な地点で乗り越え可能であることを示唆している。レンマ学の立場に立つとき、心理学はいまだに未踏破の広大な領域を放置していることが、はっきりと見えてくる。(p315)

 

 

 

 

2018年7月に読んだ本

  

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

 

「子どもの心はタブラ・ラサ」=「子どもの成長親次第」という人類に永らく信仰されてきた通念が、あきらかに間違っている証拠が科学諸分野から頻出しているにも関わらず、その諸分野の専門家たちが未だに抜け出すことができない場であり続けている、ということを声高に主張し多くの論争を生んだ本書。

基本的に子どもは、遺伝子によって規定される。その遺伝子は親の一部を受け取りつつ一部は受け取らない。「親の影響を受けた部分と受けない部分がある遺伝子」によって規定された子どもは「親(的な)大人の庇護なしには生きられない」という意味で親に規定されている。そして移民の子どもが親の話す言語と近所の子どもたちが話す言語のバイリンガルになることから、周囲の環境に影響されている。等々。

 

要は、人が一人育つ間に遭遇する計測がほぼ不可能な変数の数々が成長に大きく寄与している、というある意味常識的な落としどころ。難しいのは、人はこと子育てに関してはそういう常識的な落としどころでは納得しない、というところにこそあるんだろうな、とかなんとか思ったりする。

 

 

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

 

 

集団社会化説ー子どもたちは自分自身を仲間たちで形成される集団の一員とみなし、自らの行動をその集団の規範に合わせて調整する、さらにその集団は自らの集団を別の集団と対比させた上で、その別の集団とは異なる規範を採用する(p152)

 

生物学は運命論ではない。遺伝が人の特徴を決定づける一要因であるからといって、それが変更不可能なわけではない。その方法さえ見いだせばいいのだ。いまだにそれができないでいるのは、心理学が子育て神話に傾倒してきたことが障害となっているからかもしれない。(p256)

 

 

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 

 

資本主義的スピード感と理性の合理的使用が組み合わされた現代の社会・政治・消費環境は、有用感・正当感・おトク感のある言説をとっても合理的に拡大再生産し続けることで、近代合理主義が築き上げた体系を情動が覆い尽くしている様が批判されている。

 

人びとは敵と味方を分ける本能に駆動され、真実よりも「真実っぽい」演説家の政治家を支持し、大きなキャップに洗剤を必要以上に投入してしまう。

合理的に非合理的な直観・情動・感情に訴えることが現代の支配的な勝ちパターンであることは本書の出版後に続々と起きる非合理的な政治的結果がいみじくも証明してしまっている。

 

その対処法を提案するのは容易なことではないが、ひとまず言えるのは、ありきたりではあるが、「ファスト・ポリティクス」から「スロー・ポリティクス」への舵を切ることだろう。(p405)

 

ただ、熟慮が大切というスローガンに懐古するよりも、「スロー・ポリティクス」へ移行するインセンティブをどのように民主主義を構成する各主体に配布できるか、という方向性でしか道筋は付けられないのではないかと個人的には考えてしまう今日このごろ。

 

 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

 

 

 

 

雪片曲線論 (中公文庫)

雪片曲線論 (中公文庫)

 

 

野ウサギの走り (中公文庫)

野ウサギの走り (中公文庫)

 

 

 

虹の理論 (講談社文芸文庫)

虹の理論 (講談社文芸文庫)

 

 

 

 新たに読みたい本がひたすら増えた。

本書の目指す地点は

まず、わかっていることとわかっていないことを区別したい。できればさらに、わかっていると思っていることのなかから本当はわかっていないことを、また、わからないと思っていることのなかから本当はわかっているはずのことを取り出したい(p7)

というあたりだろう。

 

こんど全体的なまとめをつくろうとは思うけれど取り急ぎ言えば、

認知心理学における認知バイアス

行動経済学における二重過程理論

・進化生物学における「利己的な遺伝子

の知見を加味した人間像への影響は人々が思っているよりラディカルですよ~

というもの。

 

 

 熊野さんのインタビュー目当てに購入。

 

  映画『マルクス・エンゲルス』 感想

www.hark3.com

こちらを見てきた。

 

感想

ーーーーーーーーーー

 

世界各所であらゆるコミュニティーの分裂危機が叫ばれる昨今、今日この映画館を満たしているマジョリティ60~70代の方々。きっと彼ら/彼女らは革命の可能性を、世界の変革可能性を夢見ることができた最後の世代なのではなかろうか。それは「分裂」が不可避の現状だと諦観する前段階の、「団結」を夢見ることが可能だった最後の世代でもあるのだろう。

 

映画の中にも様々な分裂と団結が表れては消えていく。

 

世界のプロレタリアートに団結を呼びかけるマルクスエンゲルスは、お互いが友情で堅く結ばれ、彼らと彼ら自身との家族のつながりがあり、講演や執筆を通じて労働者階級と団結してゆく。

 

その過程では理想を述べるプルードンら思想家を断固批判もする。

「人類みな兄弟、愛が世界を救う」という時にあの資本家たちも兄弟なのか?救う対象なのか?

それは違う。彼らはプロレタリアートである我々によって乗り越えられねばならない。コミュニスト党として団結しなければならない。

そう宣言され沸き立つ会場を後にする理想主義者たち。団結への道は分裂の道でもあり、非賛同者も生み出していく。

 

国外追放され金がなく就職もままならないマルクスと、自身がブルジョワジーであることで生まれる葛藤を抱えるエンゲルスコミュニスト党宣言から20世紀にかけての影響力から想像するのは難しい、彼ら自身の人間味、青年らしさ、苦悩。その描写は強く見る者を惹きつける。

 

 

翻って現代。

 

20世紀半ばまで見られていた共産主義革命への夢はもはやない。

資本制が社会の隅々に浸潤することは、私たちの生活から資本制を分けること(批判すること)の困難さをますます高める一方で、積み重ねられてきた批判理論は顧みられることがない。

かつて確実に存在したであろう団結への強固なまでの欲求やその可能性も同様に解体が進んでいる。

 

そんな分裂の現代に生まれ育ってしまった身からこの映画を見ていると、「かつてあり今はない」ノスタルジアを感じずにはいられず、どこか寂しいような気持ちになってしまった。

 

エンドロールが流れ終わりスクリーンが閉じられようとしたその時、ひとりの観客が拍手をした。おそらくマルクス青年であったであろうその人の心には、かつてこの世界の革命を夢見るだけの熱狂的な連帯の記憶と、「世界を解釈するだけ」でないマルクスの「本物」の哲学の誕生過程を見ることで惹起された高揚感が湧きあがったのだろう。

 

けれども、その拍手に続く人はあらわれることなく、すぐにその音もしぼんでいってしまった。失われてしまった団結へのノスタルジアを想起するにはもうそれで十分だった。

 

 

「自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー」:植原亮

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

 

少し前につくった第5章までのメモ。

 

ーーーーーーーーーー

 

 

第1章;自然主義の輪郭

 

自然主義心身二元論を否定し、「心」を自然として捉える→「自然主義では人間についてこのような「非例外主義」の方針を採用する。」(p11)

・人間の心の捉え方の2つの潮流→
①ロック的な経験主義、タブラ・ラサである人間の心は経験によって形作られていく
ライプニッツ的な生得説、「経験によって知識が形成されるというのは、本当は経験からの学習というよりも、心に生まれつき備わっていたそうした要素がいわば経験を契機にして活性化することである」(p18)

 


第2章;道徳と言語のネイティヴィズム

 

「道徳判断」→「道徳的なよしあしという観点から下される判断や評価」(p33)
「道徳価値観」→「個々の場面に応じて道徳判断を生み出すような能力」(p34)

・道徳判断の特徴
「第一に、道徳判断には、人や行為に対する特有の感情を伴う」(p36)
→肯定的な感謝や尊敬、否定的な怒りや嫌悪感
「第二に、道徳判断には、極めて素早く、ほとんど自動的にくだされうる」(p37)
→直感的、熟慮せず

チョムスキーによる言語生得説→人間は普遍文法を生得的に身につけているというきわめて自然主義的なスタンス

・「普遍道徳文法」→「言語獲得の場合と同じく、〜一定数の原理から構成され〜原理に含まれるパラメーターの値は、最初は未設定だが、道徳に関係した刺激を環境から受けとることで徐々に設定されていく。」(p52)
→この説には様々な異論反論があるが、「人間の道徳を特別なものとして神秘化することなく、この世界の中で生じる自然現象の一種として理解しようと務めている」(p56)という点においては議論の活性化に貢献している

 


第3章;味わう道徳、学ぶ道徳

 

「感情主義」→「怒りや嫌悪感、もしくは感謝や尊敬〜そうした感情は、道徳判断にとって不可欠」(p59)とする立場

感情主義:感情が道徳判断の中心
↕︎(対立的)
道徳文法学派:感情を道徳判断から派生的に生じる

道徳生得説(ジョナサン・ハイトの議論)
「モジュール」→認知科学における概念、脳神経のネットワークによって実現される機能(特定の部位に位置する神経による機能ではない)

・人間の進化過程での様々な課題に対応すべく身につけてきた生得的モジュール(蛇に強い恐怖を感じる等々)、「そうしたモジュールが協働することで構成されるのが
道徳的価値観の生得的基盤、すなわちハイトのいう「道徳基盤」である」(pp69-70)

・「六種類の生得的な道徳基盤が時代や地域や文化や個人的経験による調整を受けながら発達していき、それに伴ってそこから下される道徳判断にも多様性が観察されるようになる」(p74)

道徳経験主義(プリンツチャーチランド、ステレルニーの議論)
「基礎的感情や汎用学習メカニズムの働きから道徳的価値観の発達をとらえようとする。そのさい、多くの集団に共通する問題への対処方法の収斂進化や社会的実践の社会的・文化的学習」(p85)によって普遍性を持った道徳判断の基礎が経験的に形づくられる。

 


第4章;生得的な心は科学する

 

発達心理学による知見を取り入れた生得説→幼児の頃から既に観察される(幼児的な)本質主義、物理学、心理学的な思考、これらを経験によって獲得されたとすることは困難であり、生得的だと言える

・それらの思考が、実際の学問や科学の諸分野の初期段階として確かに機能していることから、「人間は現に営まれているような科学を営むべく生まれついている」(p93)かのようである

・カントは、経験を可能にする抽象的な概念(時間、空間、因果等々)が生得的であることで、「経験主義の限界の克服と科学の起源についての説明というふたつの課題を同時に果たそう」(p97)とした

・さらに帰納法(個別の事例から一般的な法則を見出す)は、「帰納がうまくいかなければ、有限回の観察(個別事例)から、科学の目指す一般的・理論的な知識へと達することができなくなってしまう」ゆえに生得的であり、「このことは同時に、知識の起源を経験のみに求める経験主義の限界をも示しているのではないだろうか」(p103)

「モジュール集合体仮説」→人間が、生物学的進化や文化・文明の発展過程で獲得していった心の機能(モジュール)が集まって心がつくられているとする仮説
→現代において「最も極端な形態の生得説として、進化心理学と結びついた」(p116)仮説として提唱されている

 


第5章 経験主義の逆襲

 

・「現代の生得説はなかなか強力で、その優位は簡単には揺るがないように思われる」(p117)中、経験主義からどういった応答があるのかを見ていく

・「モジュール集合体仮説に対する批判」:数百万年単位で人間を取り巻く環境を見ると、不安定な氷河期が大分を占める気候変動、移住による生活環境の変化、集住化による分業制といった変動の激しさから、「どんな領域についても経験を通じて学習が行えるように心をデザインしておく方がずっとよい。〜そうした汎用学習メカニズムが進化の過程で祖先の心に与えられた」(p121)と考える方が妥当であろう

・「発達心理学に対する批判」:人間は乳幼児の頃から豊富な知覚刺激を受け取っており、「知覚能力と汎用学習メカニズムさえあれば、幼児でも心理学的本質主義に十分に到達しうるのであって、それ専用の生得的基盤は必要ない」(p125)

・「抽象概念(数や論理)の生得性に対する批判」:まだ試論に留まっているものの、プリンツによれば、生得的数が無くても乳児期に知覚の量の多加を区別できることや、生得的論理が無くても現実世界に対応させる検証スキルがあれば確かめることができる、と言われている。

・「言語生得説に対する批判」:人工知能における深層学習(ディープラーニング)こそが経験主義が主張する汎用学習メカニズムの現代的モデル
→膨大ながらも有限な学習経験を反復する「統計的学習」(p136)こそが言語の習得を可能にする
→「ハサミやイスのように特定の機能をもった人工物が環境内に置かれていればその使い方を徐々に学んでいく」(p141)のと同様、言語も人工物の一種と捉える
→「言語人工物説」が経験主義にとって重要となる