Ⅰ 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第二篇 原則の分析論
第一章純粋悟性概念の図式機能について(pp337〜347)
この章はp342を境に2つに分けることができる。
前半は、「純粋悟性概念一般の超越論的図式に必要なものの無味乾燥な退屈な分析」(p342)であり、後半は「図式をむしろカテゴリーの秩序にしたがって、カテゴリーとの結びつきにおいて叙述」(p342)される。
謎の自己評価を下されている前半部分は
純粋悟性概念と感性的直観を媒介する:図式(Schema)が取り上げられる。
まずはカントの、
〜純粋悟性概念のもとへの経験的直観の包摂は、したがって現象へのカテゴリーへの適用は、いかにして可能であるのであろうか?(p337)
という問いから始められる。
通常、経験的概念(経験によって得られた概念)は、その概念を得た経験という感性的直観によって構成されているため、その概念と直観との結びつきには何の疑いもない。例えば「リンゴ」という概念はリンゴを見たり触ったり食べたりした感性的直観の積み重ねに基づいてできあがるため、今回のリンゴは前回食べたリンゴよりちょっと小さいな・・ちょっと酸っぱいな・・という場合でもほぼ問題なく今回のリンゴの直観を「リンゴ」という概念に包摂することができる。
しかし、純粋悟性概念(カテゴリー)の場合はそういう訳にもいかない。
ところが、純粋悟性概念は、経験的(それどころか総じて感性的)直観と比較すれば、まったく異種的であり、だからけっしてなんらかの直観において見いだされることはできない。(p337)
経験的でないア・プリオリな概念(純粋悟性概念、カテゴリー)はどのようにして経験的な直観と結びつくのか。求められているのは両義性を必要としている。
媒介の働きをするこの表象は、純粋であって(あらゆる経験的なものを含まず)、しかも一方では知性的であるとともに、他方では感性的でなければならない。そうしたものが超越論的図式にほかならないのである。(p338)
悟性的でありかつ感性的である“超越論的図式”こそが媒介項として機能するとカントはいう。
では超越論的図式とは何か。
その内実は「超越論的時間規定」であるとカントは言う。
~超越論的時間規定は、それが普遍的であり、ア・プリオリな規則にもとづいているかぎりにおいて、カテゴリー(時間規定の統一をなすところの)と同種的である。しかしこの時間規定は、他方では、時間が多様なもののあらゆる経験的表象のうちに含まれているかぎりにおいて、現象と同種的である。
そのような、経験的でないア・プリオリな概念(純粋悟性概念、カテゴリー)と、経験的な直観(もしくは現象)に共に同種的な超越論的時間規定こそが、「悟性概念の図式として、カテゴリーのもとへの諸現象の包摂を媒介するのである。」(p339)
そしてカテゴリーの演繹によって示されたことが復習される。
純粋悟性概念は、
・そのもの単体では意味を成さない
・感性に何かしらの対象が与えられて初めて機能する
・感性に与えられない物自体にまで拡大して適用することはできない。
・つまりは感性によって機能が制限される
ことが確認され、
~悟性概念が使用されるときこの悟性概念がそれに制限されるところの、感性のこうした形式的な純粋な条件を、この悟性概念の図式と、またこれらの諸図式をもってする悟性の手続きを、純粋悟性の図式機能と名づけようと思う。(p340)
とまとめられる。
次は、図式と形象(Bild)の区別について。
或る概念にその形象を提供する構想力の普遍的な手続きについてのこのような表象を、私はこの概念のための図式と名づけるのである。(p340)
例えばリンゴという概念について、私たちはそれぞれがばらばらな形象(Bild)を思い浮かべることがある。ある人は赤いリンゴ、別のある人は青いリンゴ、農園の人なら木に生った収穫時のリンゴ、はたまた人によっては兎のように皮をカットされたリンゴ。それらの多様な形象があり得る中で、それでも、その人たちは一定の共通的で普遍的なリンゴの概念を見出すことができる。
犬という概念は、私の構想力がそれにしたがって或る四足の動物の形態を普遍的に描くことができる一つの規則を意味するのであって、経験が私に提示するなんらかの唯一の特殊な形態に制限されたり、あるいはまた、私が具体的に描写することができるあらゆる可能的な形象に制限されていることはない。(p341)
具体的な形象に対して、普遍性を持つ概念とその形象を結びつける、もしくは具体的な形象を思い描くある規則として図式があるということである。
ここからは後半の、「~図式をむしろカテゴリーの秩序にしたがって、カテゴリーとの結びつきにおいて叙述」(p342)がなされる。
前半も理解不足ゆえだいぶ端折っているが、後半もpp342~345をひとくくりとして捉えてみる。
各カテゴリーの図式
・量=“時間系列”:純粋図式としての数において「一を一(同種のもの)に順次加算」(p342)し、それらの統一を「直観の把捉において産出する」(p343)
・質=“時間内容”:「ある一定の度をもって~その感覚の消滅にいたるまで下降~あるいは~感覚の或る量へと徐々に上昇してゆく~」(pp343~344)その充実の度合い。
・関係=“時間秩序”:「すべての時間における~諸知覚相互の関係~」(p345)→現象(変化する)と実体(変化しない)の関係、原因と結果の関係、ある実体Aとある実体Bが相互に原因である同時存在。
・様相=“時間総括”:「~いかにして或る対象が時間に属するのかという、その対象のそうした規定の相関者としての時間自身を、含んでおり、また表示している」(p345)→なんらかの時間における可能性の図式、ある規定された時間における現実性の図式、すべての時間における必然性の図式。
だからこれらの諸図式は規則にしたがうア・プリオリな時間規定以外の何ものでもないのであって、またこの時間規定は、カテゴリーの秩序にしたがって、すべての可能的対象に~かかわるのである。(p345)
以上のことからカントは超越論的真理のありかを述べる。
すべての可能的経験の全体のうちにあらゆる私たちの認識はふくまれており、またそうした可能的経験との普遍的連関のうちに、すべての経験的真理に先行して、それを可能ならしめるところの、超越論的真理があるのである。(p346)
言いかえれば、私たちの認識は可能的経験の内部でしか成立せず、その中にある普遍的連関のみが、(事後的に認識される)経験的真理を成り立たしめる(ア・プリオリな)超越論的真理となるのである。
pp345~347にかけては、可能的経験もしくは感性によって制限されているカテゴリーの使用を、その制限を外し物自体に適用したらどうなるかが語られる。
その場合、カテゴリーは現象に当てはめられる以上に、「諸物一般にそれらが存在するとおりに妥当しうる」(p347)ようになり、制限されていた時よりさらに広範な意義を持ち得ることになる。
けれどもその広範な意義は、ただ論理的に導き出された意義に過ぎず、「そうした純粋悟性概念には、いかなる対象も与えられず、したがって、客観についての概念をあたえうるようないかなる意義も与えられない。」(p347)
例えば実体というカテゴリーから持続性という感性による規定を外してみると、そのような実体を、“持続性を外された実体”と言うことはできてもそれに該当する対象(現実に私たちが知覚できるなにか)を示すわけではない。
結局、 頭の中でいくらカテゴリーを使用しても客観性を得ることはできず(弁証論)、普遍的な意義をもった悟性の使用は感性によって制限されて初めて可能となるのである。
このような意義はカテゴリーには感性からあたえられるのであって、この感性は、悟性を同時に制限しつつ、その悟性を実在化するのである。(p347)