2019年2月に読んだ本

 

 

虎山に入る

虎山に入る

 

 

 

 

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

 

 

世界に時間的な始まりがあったか否かという問題〜は、肯定的に答えるにせよ、否定的に答えるにせよ、人間の理性によって論証的な仕方で、明確な根拠を伴って証明することはできないたぐいの問題だとトマスは述べている。ここには、人間の理性の限界についての痛切な自覚が見出される。(p43)

 

 トマスによって洗礼を施されたアリストテレスの理論は、もはや、それ以前のアリストテレスのままではない。だが、だからといって、アリストテレスとは似ても似つかぬものになってしまったわけでもない。そうではなく、アリストテレスの理論のなかに潜在していた可能性が、トマスを介したキリスト教との出会いを通じて新たな仕方で顕在化してきたということなのだ。(p99)

 

「「意思」を軸に信仰を捉えようとした」 ウィリアム・ジェイムズや、「「神への全き依存感情のうちに宗教的信仰の本質を」捉えようとしたシュライエルマッハーと比べて、トマスは「意思」や「感情」より「「知性」を軸にした信仰論を展開している」。(p111)

 

キリスト教の教えが、単純な仕方で「答え」を与えるのではなく、むしろ「問い」を与え、そのことが人間を理性的存在としてより深く広く完成させていくというのは、トマス哲学・トマス神学の最も基本的な構造だ。(p228)

 

すべてを把握できるはずという傲慢からも、何も理解できるはずがないという諦めからも解放されて、イエス・キリストによって開示された神の神秘へと理性によって肉薄していこうという開かれた態度、それがトマスの探求を貫いている根本精神にほかならない。(p267)

 

 

 

カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書)
 

 

純粋理性批判』におけるカントの意図は、純粋数学と純粋自然(科)学にすでに実例を持つアプリオリな総合判断の可能性と範囲を限定し、それによって、形而上学を含めたあらゆる学の、学としての条件を明らかにすることにあった。こうした意図からして、その基盤となるものは、「仮説」的なものであってはならなかった(p104)

 

 あらゆる認識の「基盤」となる普遍的・必然的な「条件」を見出すことを目的とした(『純粋理性批判』における)カント哲学は、カント自身に強く影響を与えたロックやヒューム、そして批判対象としてのバークリらの理論を歪めた、ないしは一定のアレンジを加えた構造を持つ、と著者は主張する。

特にジョン・ロックの経験論において、観念を生み出す原因として感官を触発する物そのもの(things themselves)は「仮説」として、「われわれが日常親しんでいる(経験的対象)とはなんらかの点で異なる新たな物を、さまざまな常識的・科学的理由から仮説的に想定する必要が生じた結果として、導入される」。(p50)

あくまで「科学的」仮説として採用されたロックの「物そのもの」が、カントにおける「物自体」(Ding an sich)になるとその装いを変えて運用されることになる。

 

物自体は現象ではなく、我々の知性に組み込まれた純粋知性概念は現象にしか適用できないのであるから、物自体の認識はカントの観点からすれば不可能となる。しかし、これはあくまで、感性と知性の働きに関するカントの説が妥当であるとした場合の話である(p63,64)

 

純粋知性概念(カテゴリー)という普遍的・必然的な概念を導出し、あらゆる経験的なものを排除した理論を目指したカントにおいて、「仮説という蓋然的知識に基づくものであってはならないという強い意識」が、ロックの「物そのもの」とカントの「物自体」が対応関係にありながらも、異質な様相を帯びることとなった。(p64)

 

バークリやヒュームが観念語法の基本的枠組みである自然(科)学的仮説に基づく枠組みを廃棄し、あるいは半ば消去しながら観念語法を維持したのと同じように、カントもまた〜、物自体を認識不可能としながらも、「われわれは現象の背後になお他のなにか、現象ではないものすなわち物自体を、容認し想定しなければならない」という、「物自体」と「現象」の原初的関係を維持し、これを『純粋理性批判』のきわめて重要な前提としたのである(p65,66)

 

「「物自体」と「現象」の原初的関係を支えていた仮説的枠組みに依拠しながら、物自体の仮説的探求可能性を廃し、「物自体」と「現象」の原初的関係のみを残したこと」、カントが選んだその「枠組み」こそが、カント自身が生きた時代潮流から影響を受けつつそこから距離をとろうとする「強い意思」によって引き起こされた「歪み」ではないか。(同前)

 

ロックとカントの共通点を再確認しながら、バークリとヒュームに見られる「観念」という概念の時代潮流的使用法が、カントにどのような哲学的筋道を歩ませることとなったのか。普遍的・必然的な理論を目指したカント哲学の「特殊性」を炙り出そうとする著者の試みに対する反論があれば、合わせて読んでみたいものだ。

  

 

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

入門ユダヤ思想 (ちくま新書)

入門ユダヤ思想 (ちくま新書)

 

 

無限といい有限といい、いずれも「限界」「境界」に係る事象であるのは言うまでもない。何かを二つに分けるとき、その切断線そのものは無視されてしまう。そのような非存在としての切断線もしくは輪郭線にこだわり続け、それどころか、この切断線もしくは輪郭線そのものと化し、それを生きること、それが《ユダヤ》であると私は考えている(p19,20)

 

〜無限と有限という橋渡しできないものを架橋し、人智を超えた無限とその「法」〔法則〕に、人間たちの日常のありとあらゆる行動を適合させようとすること。そもそも不可能なのだが、それを遂行するのが《ユダヤ》にとっては「文学」であり「言語」である。そして「注解」ないし「解釈」であった(p17,18)

 

 

『神話と人間』:ロジェ カイヨワ 収録の「かまきり」という論文において、生物の可塑性が論じられるという紹介があった。気になる。

 

 

 

文体の科学

文体の科学

 

 

〜対話体で書かれた文章は、見知らぬ読者に向けられているとしても、そこに書かれていることば自体は、対話者のあいだで交わされており、宛先が分からないということはない。また、〜私たちが日常生活のなかで、日々誰かと行なっているおしゃべりに似て、親しみのあるものだ。それに対して、独話体の文章は、文字通り誰かの独り言のようである。そして、現在、書物のほとんどは独り言のように書かれている。それを書いたり読んだりするのはどういうことなのか。その独り言を入れて移動できるように形を与える書物(やそれに類する物)とはなんなのか。

 実は本書全体の底には、このようなぼんやりとした疑問がある。(p107,108)

  

言語起源論の系譜

言語起源論の系譜

 

 

規範や理想として参照されるべき「自然」が創出され、その連続する「自然」を環境にして「歴史」が創出された結果、言語についても「歴史」を語ることが可能になった。(p120)

 

ウェストファリア条約に象徴される世俗権力と宗教権力の分離、さらには独立を果たした諸国家の自立性の主張と連動しながら、言語の「歴史」は、シモンが言う「みずからの言語のために争っている」民族に、みずからの言語の正統性を「人為」に基づくものとして改めて証明しようとする欲望を与えた。(p124)

 

「神」なしで言語の創設を、そして国家の創設を根拠づけることを強いられる時代ーそれが「近代」と呼ばれる時代である(p144)

 

それから数年後に公刊されたのが、シュライヒャーの名を高らしめた『インド・ゲルマン語比較文法概要』であり、この著作によって比較文法としての言語学は、「有機体」として捉えられた言語の変化を司る「法則性」を追求する学問として、一つの頂点を迎える。あの「言語系統樹」が掲げられたのは、一八六一年に刊行された、この書の第一巻にほかならない。その系統樹が二年前に公刊された『種の起原』に収められている「種」の系統樹と酷似しているのを見ても、もはや何の不思議もないだろう。(p358)

 

 

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)

 

「言葉の原義からメタファーが展開される」という常識的な理解に反して著者は、「メタファーによって言葉の意味が導かれる」ということを指摘する。

 

メタファーはしばしば思考の原点であり、私たちの行動までも統率する。議論に臨むとき、戦争のメタファーと建設のメタファーのどちらを選択するのか、これによって反目か協力かの体勢が決まるのだ。戦争のメタファーを選べば相手を打倒することが目的化するだろうし、逆に建設のメタファーに基づけば一致協力してひとつの成果を目標とすることになる。(p87,88)

 

これは時間にしても同様である。Time is money、「時間」と「金」は代替可能、と現代ではすっかり定着している言葉の作者とされるのはアメリカ建国の父と称されるベンジャミン・フランクリンである。「ここに功利的な近代資本主義の精神を読み取ることは難しくない」と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘されているように(p81)、資本主義の発展に伴って「時間」(Time)という語が「金」(Money)と強く結びつき、現代的な「時間」の意味がその(「金」的な)影響を受けている。

 

その結果、

「時間」という語を調べようとして『広辞苑』や『新明解国語辞典』といった辞書を繰ると、「万人向きの国語辞典に正反対の記述が見られる」(p39)状況を引き起こしたり、

「時間」という語や西洋思想を導入した明治期に書かれた夏目漱石の小説群、そこで使われる「時間」という語が、計量可能な「金」の意味合いに次第に接近していく様を見て取ることができる。(第二章 2 時間の意味ー計量されるもの 参照)

 

時間を浪費する/させるは今日では平凡な表現になってしまったが、〜これはより洗練度が増した計量表現である。〜時間はこのようなプロセスを経てしだいに西欧的な計量思考を体現する概念となって私たちのことば=思考に浸透していく(p78)

 

 

 

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

 

 

 

琥珀のまたたき (講談社文庫)

琥珀のまたたき (講談社文庫)