2019年1月に読んだ本

 

 

東京プリズン (河出文庫)

東京プリズン (河出文庫)

 

 

 

 

 

 

 

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 

『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』:ピーター・ゴドフリー・スミス (読書メモ) - einApfelのブログ

 

 

 【広島関連】

 リンクが変だが、『原子力帝国』:ロベルト・ユンク(日本経済評論社)である。

 

すべての(あるいはほとんどすべての)装置がついに非難の余地なく(あるいはほとんど非難の余地なく)機能するようになった場合ですら、原子力の予言者や計画者の賭けの中には、相変わらず計算できない最後の不安が残るのである。それは「人間因子」である。彼らはそれを将来においてもおそらく「掌握する」ことはできないであろう。つまり、彼らが調教をなしとげ、創造的でつねに自由と決定への参加を求める人間を、完全に予見可能で、全面的に操作でき、確実に意のままにできる「ホモ・アトミクス」にまで訓練するのでなければである。(p100)

 

原子力発電という一つの産業が、従業員・原子力発電所及びそのスポンサー・地域社会・軍事・政治家といった、国民国家内のほぼ全域に影響を及ぼす様を描いた反核の書。

興味深いのは引用にもある通り、原子力産業の誕生によって多くの人が「ホモ・アトミクス」への変化を求められる状況に陥る、という点。原子炉の厳密な取り扱いや管理体制、利権が生まれ翻弄される人々、「破壊力」という有用性を持つプルトニウムの搬送時への襲撃・強奪。

原子力発電所を稼働させるということは、想像の働くあらゆる観点での危険性を排除するべく奔走することを強いられる、まるで終わりのない踊りを核に強制されるようなものだ、ということが著者の主張したかったことではないだろうか。

 

千の太陽よりも明るく―原子科学者の運命 (1958年)

千の太陽よりも明るく―原子科学者の運命 (1958年)

 

 『廃墟の光』:ロベルト・ユンク↓

https://www.amazon.co.jp/%E7%81%B0%E5%A2%9F%E3%81%AE%E5%85%89%E2%80%95%E7%94%A6%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%9E-1961%E5%B9%B4-%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AF/dp/B000JANM56/ref=sr_1_9?ie=UTF8&qid=1549019018&sr=8-9&keywords=%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%82%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AF

 

 

 

ゲンロン7 ロシア現代思想II

ゲンロン7 ロシア現代思想II

 

 

 

 

 

古文の読みかた (岩波ジュニア新書 76)

古文の読みかた (岩波ジュニア新書 76)

 

 古文の単語帳と辞書欲しいなあ。

 

 

行動経済学の逆襲

行動経済学の逆襲

 

 著者も認める厚い本だけど(投資関連以外は)読みやすかった。

経済学で想定される経済活動を行う主体を「エコン」とし、行動経済学で想定する不合理な活動主体を「ヒューマン」と呼び分けることによって、従来の経済学理論がいかに「エコン」という現実と乖離した人間像に依拠していたかを批判し、かつ現実の経済・金融・行政等の政策に有効な理論を構成するため「ヒューマン」という行動経済学的人間像を前提とすることで、昨今の「不合理」で「非理性的に理性を使う」という人間性の変革を理解する上で良き入口ともなり得るなーと思う次第。

 

 

 

誰のために法は生まれた

誰のために法は生まれた

 

いろいろなところで高評価な一冊。

まさに「法」が生まれるその瞬間を歴史的な文学および映像作品から見出し、いかに「法」が人間の自由を担保し得るのかを原理的かつ直感的に理解できる筋道を示してくれる、若い人に読んで欲しい好著。

 

 

 

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

 

 

 

 

ミクロコスモス I

ミクロコスモス I

 

  

ミクロコスモス II

ミクロコスモス II

 

 

 

 

 

 

 

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

 

 

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)

 

 久しぶりに再読の2冊

 

 

 

 

 

 

 

『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』:ピーター・ゴドフリー・スミス (読書メモ)

 

 

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 

1 違う道筋で進化した「心」との出会い


①哺乳類(私たち)と頭足類(タコ)が分岐したのは6億年前


②「頭足類は、軟体動物の一種であり、その意味ではハマグリやカタツムリに近い。にもかかわらず、大規模な神経系を進化させた。そのため生態は、他の無脊椎動物とは大きく異なっている。私たち人類とはまったく違う筋道を通って進化してきたにもかかわらず、高度に発達した神経系を持つにいたったのだ」(p9)


③「頭足類を見ていると、「心がある」と感じられる。心が通じ合ったように思えることもある。〜私たちがそうなれるのは、進化が、まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくったからだ。頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう」(p10)

 


2 動物の歴史


①細胞間の伝達が多細胞生物を「成り立」たせ、隣り合う細胞だけでなく、「一部の特殊な細胞間で、ある特定の物質がやりとりされ〜、この特殊な細胞が一箇所に集まって、特異な情報伝達を行う電気化学的信号を飛び交わす「脳」と呼ばれる器官になっている」(p24)


②周囲を知覚する感覚器と、その知覚をもとに行動する運動器官、その2つをつなぐのが神経系である
→「神経系は行動を調整するだけではなく、行動そのものを生み出してもいる。」(p27)


③「放射相称動物」:上下の区別はあっても左右の区別はないクラゲのような生物


④「左右相称動物」:前後左右の区別がある人間、魚、タコ、アリ、ミミズなどの生物(p40)


カンブリア爆発で、「「食う、食われる」の関係」(p39)が大量に出現し、爪や触覚など「他の動物の存在を抜きにしては、それを備えている理由が説明しにくい」(p42)器官が発達した。「進化のフィードバック」
→「この時点以降、「心」は他の動物の心との関わり合いの中で進化した」(p42)

 

 

3 いたずらと創意工夫


①「頭足類は、海底から水中へと浮かび上がることで、〜自らが捕食者となる可能性を手にした」(p53)
→海底を「這うための足は無用」となり、「漏斗と呼ばれる器官から水を勢いよく吹き出すことで前進する」「ジョットエンジン」を手に入れた。そして「這うことから解放された足は、物をつかみ、操ることに使えるようになった」(p53)


②頭足類は次第に殻を捨て始める
→「恐竜の時代の少し前〜殻が小さくなる、あるいは体内に吸収されるということが起きた」。「攻撃に対しては弱くなるが、その代わりに行動の自由度は高まる。一種の賭けであったが、賭けに挑む物が多くいた」(p55)


③タコがわずかに持つ固い器官のうち最大のものは目と口であり、「直径が眼球よりも大きければ、かなり小さい穴でも通り抜けることができる」(p56)


④ヒトのニューロン:約1000億個、タコのニューロン:約5億個≒犬に近い(p59)
→ただ、ニューロンの絶対数だけでなく、身体と脳容量の比率や複雑性の差など、「賢さ」の基準は様々ある


脊椎動物とタコは脳の基本構造が大きく異なる
→「タコの場合持っている〜ニューロンの多くは腕の中にある」(p61)


⑥「脊索動物の神経系を中央集権型だとすると、頭足類の神経系はそれよりも分散型だと言える」(p80)
→「腕にあるニューロンの数は、合計すると脳にある数の二倍近くになる」(p81)


⑦「タコの神経系は部分ごとに機能する場合と、脳の指令の下、中央集権的に機能する場合の混合のようなかたちで働いているらしい」(p82)


⑧心理学における「身体化された認知」に当てはまらないタコ(p90-93)

 

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⑨「タコはまず、好奇心が強い。そして順応性がある。冒険心があり、一方で日和見主義なところもある。そのような動物が、果たしてどのような進化の歴史を経て現れたのか」(p77)


⑩「頭足類は、イカの一部を例外として、「社会的でない」知性を獲得した動物と考えることができ〜そして、頭足類の中でもタコは、複雑な、そして特異な単独行動を進化させる道を歩んできた」(p79)

 

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⑪タコには個体差があり、「ラットやハトなどに比べてはるかに、自分でこうしようという考えを強く持っているようである。〜タコの行動にはどうも、「いたずら」の要素が〜、また〜狡猾な面もあるようなのだ」(p65)
→「電球に勢いよく水を吹き付けて」「電源をショートさせることを学習したタコを飼育していると、コストがあまりにも高くなるから」「水族館のタコをやむなく野生に返した」(p65,66)


⑫「研究所のスタッフの一人が、一匹のタコに嫌われていた〜。〜その理由はよくわからない。とにかくその人が水槽のそばの通路を歩くと、必ず二リットルくらいの量の水を首の後ろあたりに浴びせかけられた」(p67)


⑬同じユニフォームを着た人間「一人ひとりを見分けられるということが実験によって確かめられた」(p67)


⑭「うれしくない食物」を与えられ続けたタコは、食べ物を与えた彼女「のほうを見ながら、イカのかけらを水の流れ出るところに向かって捨てた」(p68)


⑮「捕らえられたタコが〜、私が見た限りでは、逃げようとするのは、必ず、人間が見ていない時なのだ」(p68)


⑯「一〇年ほど前からは、タコが“名誉脊椎動物”として扱われることが増えた。特にEU諸国では、実験において脊椎動物並みに規制を守って取り扱われることが増えている」(p70)

 

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⑰「現在も太平洋に生息しているオウムガイは、約二億年前からほとんど変化していない。〜浅い海と深海の間を上下するが、上昇、下降がどういうタイミングで行われるのかは、現在研究中でよくわかっていない」(p55)→もしかして自由意志を持っているかも??と思ってしまう


⑱「タコには余計なことをするだけの、内面の能力の余剰があるようだ」(p88)

 

 

4 ホワイトノイズから意識へ

 

①「神経系が複雑になってはじめて主観的経験が生じたのではなく、もともと、単純な形態の主観的経験があって、それが神経系が複雑になるにつれて大きく変化していった、そう考えるのが自然なように思える」(p116)
著者は「意識」よりも「主観的経験」という概念を、より根源的・原初的な意味での「意識」を指す言葉として選択する。
「意識」はあまりに私たち人間の状態を想定してしまうため、人間とは別系統で進化した生物に対して「意識」は当てはめ難い(例:p 96「痛み」についての記述)
一方「主観的経験」とは、「自分の存在を自分で感じること」(p95)であり、「「自分」と「外界」との区別」(p102)を持つことである。
あらゆる生物に「わずかであっても主観的経験はある」(p97)とする著者の立場をまとめれば、手垢のついた「意識」を相対化し、より生物一般に普遍性を持つ(と想定される)「主観的経験」を基礎に据えることで、「フィードバック」(p97)、「因果関係の弧」(p99)、「知覚の恒常性」(p102)、「統合」(p103)といったキーワードとともに、まったく別の「知性」を持つ生物を思考する術を探る試み、と言えるだろう。



②スタニスラフ・ドゥアンヌ教授はサブリミナル効果を起こすような実験から、「無意識のうちにできることと、意識的にしかできないことがあるのではないか」と考える。(p110,111)
無意識は習慣的な行動に、意識的な時には新規な状況に対応できる。その分かれ目は、継起する現象なり体験なりの時間差が瞬間的であれば無意識の、一定以上の間隔があると意識の担当となる。
「私は「主観的経験」という言葉に少し広い意味を持たせ〜、「意識」はそれに含まれるがより狭いカテゴリーとして用いている。動物が「感じている」ことのすべてが「意識的」である必要はない、ということだ」(p113)

主観的経験の原始的な形態として著者は「痛み」をあげる。(p114)
生理学者デレク・ダントンの言葉を借りて「根源的感情」と言うこともできる。
痛みを伴う(と人間が想像してしまう)身体の損傷を避けようとする多くの生物は、哺乳類や鳥類以外でも観察され、それは哺乳類や鳥類以外の生物に「意識」があるとは想定し難くとも「主観的経験」はあるように思うことはできる。
では「主観的経験」はいつ生まれたのか?
著者の仮説→「主観的経験は、動物の身体というシステムの通常の運転の中からは生じなかったのではないか。」身体の内側外側を問わず、「看過できない問題が起きたことが発端だったのではないだろうか」(p118)
多様な生物が生息していたカンブリア紀において、「根源的感情」を引き起こす賑やかな外界の環境が「主観的経験」の起源ではないだろうか。

 

④「知覚の恒常性」をもつ→一つの物体を近づけたり遠ざけたりしても同一であると認識できる(p121,122)
方向間隔→巣穴から出て「円を描くような経路」で「巣穴に戻ってくる」(p123)

「タコの置かれている状況はいわばハイブリッドだ。タコにとって、腕はそれぞれが「自己」の一部だと言える。目的を持って動かし、外界の事物の操作に使うことができるからだ。しかし、身体全体を集中制御する脳から見れば、腕はどれも部分的には「他者」ということになる。自分が指令していない動きを勝手にすることもあるからだ」(p126)
→だがこのような身体の一部が「他者」であるという想定すら、「私たちの脳が私たちにとって中心をなす存在であるのと同じく、タコの脳もタコの中心をなしているという前提での話になる。おそらくこの前提が誤りなのだろうと思う」(p127)

 

 

5 色をつくる


①「頭足類は一般に(すべてではないが、その多くが)身体の色を変える能力に長けている」(p132)


②「彼ら[ジャイアント・カトルフィッシュ]と人間との交流を「交流」という言葉で表現するのはふさわしくないとも思える。彼らの態度は簡単に言えば「無関心」ということになるのだが、あまりに無関心の度合いが強いので、それをどう表現すればいいのかわからなくなる」(p144)


③色を見分けるには「少なくとも二種類の光受容体が必要になるが、頭足類のほとんどは一種類の光受容体しかもっていない」(p146)
→これまで行われた頭足類に対する色識別の実験でも、色の区別ができていないことがわかっている(p146)
→ではどのように背景に擬態するなどの行動が可能なのか?
→ラミレスとオークリーの論文によれば、「ある種のタコ〜の皮膚で、光受容体に関連する遺伝子が活性化されている」ことが判明した。モノクロとはいえ皮膚でも「見る」ことができる
→著者の仮説は、タコの皮膚の層にある色素胞と光受容体が色を識別する機能を担っているのではないか、というもの

 

 

6 ヒトの心と他の動物の心


①「外界の状況を感知し、外に向かって信号を発する能力が内面化して、ついには神経系を生んだ。それを進化史上の重要な内面化の一つだとすれば、思考のための道具として言語が使われたのはまたもう一つの重要な内面化だった。どちらの場合も、自分以外の生物とのコミュニケーションの手段だったものが、自分の内部でのコミュニケーションの手段に変化したことになる」(p186)

 


7 圧縮された経験


ジャイアント・カトルフィッシュやタコの寿命は1〜2年ほど


①「頭足類の多くは、その寿命の短さに比してあまりに大きく、あまりに賢いと言える」(p194)


②「頭足類の特徴、特にタコに顕著に見られる特徴の多くが」、進化の過程で「殻を捨てたことで〜形態を自在に変え、機敏に動けるように」なり、「複雑な神経系を持つようになった」。また、「絶えず、鋭い歯を持つ捕食者に狙われる危険」から、「生き急いで若くして死ぬという生き方をするようにもなった」(p212)  

 


8 オクトポリス

 

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関連ニュース

wired.jp

 

 

『ヒロシマ・パラドクスー戦後日本の反核と人道意識』:根本雅也 (読書メモ)

 

ヒロシマ・パラドクス―戦後日本の反核と人道意識

ヒロシマ・パラドクス―戦後日本の反核と人道意識

 

 

【目次】

 

 序章 ヒロシマの普遍主義

 第一部 創られたヒロシマー普遍主義の力学

  第一章 占領と復興ー普遍主義の誕生

  1.広島市の論理ー災禍の意義

  2.占領という時代状況

  3.平和記念都市としての復興ー地域主義的な普遍主義

  4.普遍主義という作為

  第二章 原水爆禁止運動と広島ー人道主義と超政治的立場

  1.原水爆禁止運動と人道主義

  2.運動の分裂と広島ー人道主義・原体験・超政治的立場

  3.分裂後の核兵器反対運動ー超政治的立場の意味

 第三章 原水爆禁止運動の分裂と広島市行政ー権力の拡大

  1.山田節男市政の発足

  2.平和施策の強化

  3 .広島市と社会運動の関係の変化

  4.人道主義・非政治化・行政権力の拡大

  5.普遍主義の力学

 

第二部 遺産化する被爆体験ー継承の力学

 第四章 被爆体験の遺産化ー被災の資料と記録の運動

  1.「被爆体験の継承」が求められるときー歴史的背景

  2.壊れたモノの意味ー原爆ドームと被災資料の保存

  3.記録の意味ー被爆地図復元運動と原爆被災全体像調査

  4.遺産化の両義性

 第五章 継承の制度化ー体験を語る活動と教育

  1.体験を語ることの意味ー米山リサによる研究

  2.継承と教育

  3.体験語りの活動の形成

  4.語り手になること

  5.制度化される語りー問われない「継承」

  6.拡大する広島市の役割ーもうひとつの副産物

  7.継承の力学

 

第三部 生きている原爆ー暴力の力学

 第六章 傷と痛み

  1.熱戦による外傷と被爆

  2.痛みと身体

  3.「汚い」身体ー外見の変化

  4.自分の身体、自分ではない身体ー今=ここにある〈原爆〉

 第七章 ホウシャノウが現れるとき

  1.放射線の人体影響をめぐる科学的知識とその性質

  2.ホウシャノウが現れるときー異常の原因

  3.被爆者の論理ー東友会の被爆者調査を事例として

  4.可能性をめぐる不安と苦悩ー遺伝的影響

  5.終わらないホウシャノウ

 第八章 死者とともに生きる

  1.死者の声とまなざし

  2.死者という重荷と責務

  3.死者との関係性を生きるー「生き残り」の戦後史

  4.死者とともにある生

 終章 反原爆の立場ーもうひとつの普遍主義

 

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 序章 ヒロシマの普遍主義

①原爆投下によって引き起こされた災禍は多くの地域で共有され、その悲劇の当事者である「ヒロシマ」は一種の普遍性を、20世紀における半核兵器運動とともに帯びることとなった。この歴史的意義を再確認しつつも著者は「一方で、こうした普遍主義は副作用をもたらすことがある」と述べる。(p4)

 

 ②「普遍的な価値を強調することで、関連する諸行為はときにイデオロギーや政治的立場を超えたものとして捉えられる。しかし、そのことは政治的立場の否定や政治の忌避を引き起こし、それらの排除にもつながる。つまり、原爆の災禍について伝えることや人類のために核兵器に反対することは、政治的立場を超越した行為とみなされて政治と切り離される一方で、「政治的」とみなされる場所ーたとえば具体的な政治への言及や関与などーは避けられ排除されるようになる。言い換えれば、それは非政治化という副作用である」(p4)

 

 ③「本書が「ヒロシマの普遍主義」というとき、それは普遍主義でありつつも、広島という地域で(しかし、他の地域や国の人々との相互作用や社会的状況の影響の中で)形づくられてきたこと、そしてそれが地域主義的な側面を持っていることを反映することとなる」(p14)

 

 ④「本書がヒロシマの普遍主義に焦点を当てるのは、それが形成され展開される中で副作用を生み出したからである。その副作用とは、原爆の災禍にまつわる諸行為を政治から切り離すという非政治化の力学である。日本の社会的・時代的な状況の中で、ヒロシマの普遍主義は、人類という立場を強調することで、関連する諸行為をイデオロギーや政治的立場を超えるものとして扱うようになる。〜しかし、政治的立場を超えること、あるいはそれを超えようとすることは、逆に、政治的立場や政治への関心の忌避や否定、さらにはそれらの排除にもつながっていくこととなる」(p15)

 

 

 第一部 創られたヒロシマー普遍主義の力学

  第一章 占領と復興ー普遍主義の誕生

  1.広島市の論理ー災禍の意義

①「全人類永遠の広島」や「平和のメツカ」という言葉とともに、「戦後一年も経たないうちに、広島市の復興は世界の平和と結びつけて語られていた」。(p34,35)

②その理由は、「ひとつは原爆が戦争を終結させ、平和をもたらしたという考え方で」あり、「もうひとつは、核兵器による戦争が「人類の破滅と文明の終末を意味する」がゆえに、今後、戦争を引き起こすべきではないという「思想革命」で」あった。(p36)

 

  2.占領という時代状況

GHQ /SCAPによる、原爆批判を含む占領体制全般に対する言論の統制・検閲

②「原爆投下とそれによる惨禍の出来事を人類や世界という視点から捉え、その意義を強調することは広島市GHQ /SCAPの間で共通しており、〜戦災ならびにそれを被った広島市の特殊性を強調する根拠となっていくのである」(p39)

③ただしその陰となる、「原爆投下やその災禍に否定的な意味を見出すこと」や「責任の所在を人類や世界というカテゴリーではなく、国というナショナルな観点から模索すること」といった部分には光が当たらなくなることも同時に意味していた。(p39)

 

  3.平和記念都市としての復興ー地域主義的な普遍主義

①戦後広島市における復興資金の問題

②「原爆の災禍が普遍的な価値を持つことを理由に、政府に対して特別な援助を求めた」(p43)

→1949年5月10日、広島平和記念都市建設法案が長崎国際文化都市建設法案とともに可決

③原爆の災禍という「普遍的な価値」を強調するため、他の戦争被害地とは異なった「特殊性」・「地域主義」に立脚する必要があった

 

  4.普遍主義という作為

①「この普遍主義は占領体制の枠組みの中で、それに沿う形で展開されていた。広島市行政は占領体制に反対することなく、原爆の災禍について解釈を行い、国を超えた人類や世界といったより包括的なカテゴリーを用いた」(p45)

 

 

  第二章 原水爆禁止運動と広島ー人道主義と超政治的立場

  1.原水爆禁止運動と人道主義

アメリカのビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸の被災

→全国的な反原水爆の署名活動と組織化

②それらに影響を与えたのが東京の杉並協議会

→東京都杉並区で結成された組織

→「国民」「人類」「ヒューマニズム」というスローガンのもと、「政治運動化」することを回避

 

  2.運動の分裂と広島ー人道主義・原体験・超政治的立場

①広島の反原水爆組織である原水爆禁止広島県協議会広島県原水協)は「広島市行政や市議会も関与する半官半民の組織であった」(p58)

②全国的な盛り上がりを見せた原水禁運動の分裂

→1960年の安保闘争で各党派に分裂

原水禁運動に深くコミットしていた日本共産党日本社会党らのイデオロギー対立により大きく分裂

③「原水禁運動の混乱の中で人道主義は広島という「被爆地」に特有のもの、さらに言えば原爆の経験に密接に関係するものとして位置づけられていく」(p67)

④「もともと人道主義は政治的な立場と対置され、それを超える考え方や行動とされていた。しかし一九六〇年代の広島において、それは「原体験」と結びつけられ、広島という地域に特有なものと強調された。広島における人道主義は原爆の「原体験」に由来するという点で地域主義的であり、それは政治的な立場を超える立場ー超政治的な立場ーを志向するものであった」(p70)

 

  3.分裂後の核兵器反対運動ー超政治的立場の意味

①被災白書運動

→「単に核兵器反対を訴えるのではなく、広島・長崎に投下された原爆とビキニの水爆実験による人的な被害の全貌を解明し、その事実を公的な記録としてまとめ、国内外に伝えることで、核兵器の禁止を達成しようとした」(p72,73)

広島市や県外知識人の協力を得るも、「一般の人々からの強力な指示を得るところまではいかず」、当初の目的は達成されなかった(p74)

原爆ドームの保存

→元の名は「広島県産業奨励館」

→市民や知識人、財界人に加え、「分裂した広島の原水禁被爆者団体など十一団体による請願」という、「分裂以後初めての諸団体による統一行動」(p75)

→全国的な募金により費用を集め保存工事を実施した

③「あらゆる人々がそれぞれの立場を超えてまとまることが何よりも重視され」たため、「「原体験」の解明や記録、保存」へと焦点を変えることで政治的対立や分断を避けようとした。「政治を超えようとすることは、政治を避けることにもつながっているのである」(p77,78)

 

 

 第三章 原水爆禁止運動の分裂と広島市行政ー権力の拡大

  1.山田節男市政の発足

①山田は広島を「平和のシンボル」として世界に発信することは「世界的意義」があると考え、重要な観光資源としても活用できると考えていた

 

  2.平和施策の強化

広島市行政の一局として、広島平和文化センターが設立される

→主な業務は、「平和に関する諸問題の調査研究や情報誌・資料の収集、平和に関する事業の企画や実施の推進、平和関係の団体との連絡調査など」(p88)

 

  3 .広島市と社会運動の関係の変化

①会長や役員といった立場で広島の原水禁運動に深く関与していた浜井信三と違い、山田節男は「運動が複数の団体に分裂していることに対して批判的で」あり、「核実験に対する抗議電報や平和文化センターの創設」といった「広島市行政を母体として平和や核兵器反対に取り組むようになった」(p91)

 

  4.人道主義・非政治化・行政権力の拡大

①党派対立と分裂により混乱した第九回原水爆禁止世界大会

②「「祈り」が政治的な立場を持つ社会運動と対置され、前者が重視され後者が忌避されるように」なり、「政治的な立場を持つものを排除するという意味での非政治化が姿を表すようになる」(p97)

③「山田によって〜立場を超えて人々をまとめるために持ち出された人道主義は、まとまらないものに対する批判へと転換され、政治的な立場を明らかにする社会運動を排除する論理にもなり得たのである」(p99)

平和祈念公園の聖域化

→「静かな祈り」の重視

→政治的な活動の排除

→「この〜排除の境界線を引くのが、公園の管理者である広島市行政である。平和公園という空間に表れたのは、人道主義的な態度であり、非政治化であり、そして行政権力の拡大だったのである」(p105)

 

  5.普遍主義の力学

①「ヒロシマの普遍主義は政治的な立場を超える立場を志向する。しかし、それは政治的立場を避け、排除することにも通じ、行政権力の拡大を支えるものともなる。この点で、ヒロシマの普遍主義が引き起こす非政治化とはひとつの政治的な力学でもある。政治的なものを拒否し、避けることはひとつの歯車として、行政権力の拡大という他の歯車を動かしていくからである」(p108)

 

 

第二部 遺産化する被爆体験ー継承の力学

 第四章 被爆体験の遺産化ー被災の資料と記録の運動

  1.「被爆体験の継承」が求められるときー歴史的背景

①1960年代になり、世代交代による「被爆体験の風化」と、「原体験」(第二章)の強調により「被爆体験の継承」が注目を集めるようになる

 

  2.壊れたモノの意味ー原爆ドームと被災資料の保存

原爆ドームの保存について、当初広島市は消極的だった

→「保存の声が高まる以前には、原爆ドームを平和と結びつける論理は明確ではなかった」(p123)

②1960年代頃から、市の内外から保存を求める声が届くようになる

③「一九六八年は広島で「原爆被災資料ブーム」と呼ばれるほど、様々な原爆被災資料が発見された年でもあった」(p124)

 

  3.記録の意味ー被爆地図復元運動と原爆被災全体像調査

①原爆被災以前の広島市の戸別地図を復元することで、「原爆による人的な被害の全体像を解明しよう」とした(p127)

②個人の体験(点)をつなげ(線)、それを原爆被災地域へと広げる(面)試みであった

(後世へと伝えるための被災のデータ化(数値化)とも言えよう)

 

  4.遺産化の両義性

①「被爆体験を後世に継承する」とは、本来個別的であるはずの「被爆体験」を他者と「共有」しようとする、(原理的には)不可能な行いである

②そのため「被爆体験」に、「人類にとっての警告や教訓を見出すことによって、社会的には肯定的な価値を付与」できるようになる(p131)

→それは「広島市」や「人類」といった主体にとって価値が生まれる

→「「被爆体験」という集合的経験の遺産を管理し代弁するアクターとして広島市行政が姿を現す」(p132)

→遺産として重要性が認識されるも、「なぜそれを「人類の遺産」とすべきなのかが問われなくなる」という、遺産化による両義性(p132,133)

 

 

 第五章 継承の制度化ー体験を語る活動と教育

  1.体験を語ることの意味ー米山リサによる研究

①「今日の体験語りの活動は一九八〇代以降に組織化されたものであり、それは被爆者の抱える諸問題の解決や核兵器禁止を訴える社会運動のためというよりも、被爆者の体験を次世代に語り継ぐという「被爆体験の継承」を主な目的としている」(p137)

 

  2.継承と教育

①1960年代後半から始められる、広島市及び県による平和教育の取り組み

→目的は「被爆体験の継承」

原水禁運動の分裂に対して、「平和教育は政党のイデオロギーによる対立と混乱を免れることができ、分裂した原水禁団体の代表もともに参加できる場となっていた」(p142)

 

  3.体験語りの活動の形成

平和教育という背景のもと、1980年代に体験語り活動の組織化がおこる

→それまでの体験語りの目的は、原水禁運動の「盛り上げや被爆者の組織化にあった」(p142)

②修学旅行先としての広島

→「核兵器に反対する社会運動においてではなく」「一般の被爆者が教育のため語るという取り組みが生まれ」、「被爆者に語り手という新たな役割が与えられた」(p144)

平和教育という目的のもと「体験を伝えることに特化」することで、政治的対立や混乱を回避した(p152)

 

  4.語り手になること

①語り手として主体化

→社会からの「呼びかけ」(修学旅行での体験語りの依頼等)がある

→「被爆者による体験の語りが聞き手を感動させるのみならず、語り手にとっても励みとなり「使命感」をもたらす」、「こうした語り手と聞き手の相互作用」(p157)

→「「被爆体験の継承」という規範の存在、平和教育と広島修学旅行の展開、そして被爆者の語りに対する関心の高まりといった特定の社会的状況の中で生まれた「偶然」」が、被爆者が体験語りをする「呼びかけ」となった(p159)

②ただ、語り手は聞き手の求めを必要とするため、「語り手として「適切」あるいは「良い」と聞き手から判断される必要がある」(p163)

→語り手の、聞き手に対する従属構造

 

  5.制度化される語りー問われない「継承」

①修学旅行先として広島の需要が高まる

→業者任せ、事前学習なし、形骸化した「平和教育

②証言する機会が増えたため、「被爆者が学習した結果、その内容が彼らの語りに反映され、「被爆体験」という「証言者の生き様」が「話の一部」となり、それゆえに「証言の画一化」「機械化」が起こっている」(p167)

平和教育として制度化された被爆者の語りは、語り手と聞き手の相互作用によって語り手の学習と組織化が促進され、語りの「画一化」が引き起こされた

④だがその「画一化」を批判する時、「被爆者たちの間でどのように語るべきなのかが議論される一方、〜なぜ語るのかについては問われることがない」。「なぜ「被爆体験」を「継承」するべきなのかが問われていないということだ」。(p168)

 

  6.拡大する広島市の役割ーもうひとつの副産物

①体験語りおける広島市行政の存在の拡大

→市民の体験語り団体の高齢化に伴い、事務機能を備えた市の平和文化センターが主な窓口〜運営主体となる

原水禁運動の分裂の記憶から、「被爆体験の継承」から政治的なものを排除するという姿勢や、「「政治的に中立な」あるいは「政治的でない」行政を選ぶことが当然であったと考えられる」。「広島市行政の拡大の根底には「被爆体験の継承」という理念と実践に込められた非(超)政治的立場と行政の立場の間に親和性があるように思われる」。(p172)

 

  7.継承の力学

①「「被爆体験の継承」という理念と実践は「被爆体験」を遺産化するものであり、それは普遍主義の力学の中にある」(p173)

原水禁運動の分裂→政治的なものへの忌避→「原体験」「被爆体験」の強調→資料の記録や保存と平和教育→制度化と組織化を経た「被爆体験」という遺産の「画一化」

③「批判的な思考にもとづくならば、私たちはなぜ「被爆体験の継承」をしなくてはならないのかを問うことになる。原爆の体験を聞くのは、それが大事だからではなく、なぜそれが大事なのかを考えるために聞くのだろう。このように考えるならば、「被爆体験」を遺産として捉え、そしてそれを何の疑問なく継承しようとすることは継承にはならない。私たちは、思考の停止に抗うことを被爆者から学ぶことができることにもかかわらず、「継承」を規範としてそのまま受容することは思考の停止を支えてしまうことにもなるのだ」(p175)

 

 

第三部 生きている原爆ー暴力の力学
 第六章 傷と痛み
  1.熱戦による外傷と被爆
①著者が取材した2名の被爆者の被爆当時の状況と、現状の症状について

 

  2.痛みと身体
①「原爆の熱戦がもたらした熱傷、そしてそこから生じたケロイドは、被爆者の身体に今も痛みを引き起こし〜今=そこにある〈原爆〉の存在を知らせるものでもある」(p188)
②「被爆前には自由に動かせていた身体は、原爆によって姿を変え〜自由に動かすことができなくなり、〜このような自分の自由がきかない身体を「自分の身体」として捉えることができない」(p191,192)

 

  3.「汚い」身体ー外見の変化
①「外見の変化が被爆者の性格の変化を引き起こす要因のひとつには他者からの視線がある」(p200)
②「周囲の人と自分の間にはどうすることもできない境界線があり、周囲の人々にとって自分こそが他者であることを痛感するようになる。ケロイドを持つ被爆者にとっては、自分は他者とは異なる存在ー被爆者ーになるしかないのである」(p201)

 

  4.自分の身体、自分ではない身体ー今=ここにある〈原爆〉
①ケロイドによって生まれる分割線、「きれいな身体」「当たり前の身体」と「醜い身体」「汚い身体」
→他人と自分の分割であり、被爆前の自分と被爆後の自分の分割であり、ケロイドのある身体部位とケロイドのない身体部位の分割である
②「ケロイドは〈原爆〉のしるしであり、被爆者にとって今=ここにある。それは被爆者の身体を変容し、痛みを引き起こす。ケロイドのある身体は、被爆者にとって、何十年を経たとしても(自分の身体でしかないにせよ)自分の身体にはなりえない。ケロイドを持つ被爆者の生は〈原爆〉によって変えられた生である」(p201)

 

 

 

 第七章 ホウシャノウが現れるとき

  1.放射線の人体影響をめぐる科学的知識とその性質
①「放射能」と「放射線」について
→暖炉で炭が燃えている状況で、炭から出る暖かい熱(線)を「放射線」、その熱(線)を出す能力のことを「放射能」、と例えることができる
②「疫学による調査結果が人々に提示するのは可能性(Possibility)である。〜中略〜可能性は一種の余白を生み出す。可能性である以上、それは確定された答えではない。ある病気になったときに、それは放射線の影響ではないかもしれないが、反対に放射線が原因がもしれないのだ。可能性が持つ余白には、人々の解釈が入り込み、展開されていく」(p211)

  2.ホウシャノウが現れるときー異常の原因

①「被爆者にとって、ホウシャノウは体内に異物としてあり続けるが、何もなければそれほど意識されることはない。だが、がんなどの異常が実際に起きるとホウシャノウは強く意識されることになる」(p213)

 

  3.被爆者の論理ー東友会の被爆者調査を事例として

①自分の被爆経験、科学的医学的な知識、周囲の人との比較、被爆者同士の状況等を総合的に判断する
②「ひとつひとつの出来事という点が一本の線となり、「偶然」という言葉では片付けられず、ホウシャノウが原因ではないかという疑念や確信に至るように思われる」(p220)

 

  4.可能性をめぐる不安と苦悩ー遺伝的影響

①「被爆者にとって不安はその時々に変容する動的なものであり、とくに知識や情報と自分自身の経験によって変わっていくものであった」(p226)

 

  5.終わらないホウシャノウ

①解釈の余白をもつホウシャノウに対する意識は、自分や周囲の親族知人の状態に影響を受けながら更新され続けている
②「被爆者にとってホウシャノウとは常に意識されるわけではないが潜在し、何か異常があれば意識に現れるようなものである。ホウシャノウの影響は更新され続け、終わることはない。被爆者にとってホウシャノウは自分に生涯つきまとう〈原爆〉なのである」(p230)

 

 

 第八章 死者とともに生きる

  1.死者の声とまなざし

①「死者や死にゆく者たちの声、顔は、生き残った被爆者たちに刻まれる。それは主体的に「思い出す」というよりも、強烈に「残っている」ものである。そして、被爆者は自身に刻まれた死者の声やまなざし、表情、そして姿をどうすることもできない」(p237)

 

  2.死者という重荷と責務

①「死者の存在はしばしば被爆者が背負わなくてはいけない重荷となり、責務となる。死者に対する罪意識と自責の念は被爆者にのしかかり、彼らは死者のために何かをしようとする。〜死者という重荷を背負った被爆者はその責務とともに生きざるをえないのである」(p246)

 

  3.死者との関係性を生きるー「生き残り」の戦後史

①「彼女にとって、生き残ったことは生き残らなかったことと一枚のコインの両面であった。そして「『生き残り』としてじゃなくて生きたかった」という梶田の言葉には、「生き残り」であることが彼女にとって肯定的なものではないことが表れている。「生き残り」として死者の存在を背負って生きることは、梶田にとって、「寂しい」ことでしかなかった」(p250)

②「梶田と亡くなった同級生との関係は、〜「生きた人と死んだ子たち」の間を「行ったり来たり」することで〜、死者の存在は未だにともに生きる存在であって、語ったり意味を与えたりするような対象とはなっていないのである」(p256)

 

  4.死者とともにある生

①「被爆者にとって死者の存在は原爆によってもたらされたものであり、〈原爆〉を指し示すものである。〜原爆によってもたらされた人々の死はその者たちの死で完結するわけではない。亡くなった者の生はそこで止まれども、彼らは死者として被爆者とともに生きている」(p258)

 

 

 終章 反原爆の立場ーもうひとつの普遍主義

 ①「ヒロシマの普遍主義は、国内の社会状況や国際関係を背景として広島という地域で形づくられ、それ固有の力学を有し〜非政治化という副作用を持つことであった」(p263)

②だが、非政治化によって引き起こされたことは、「広島市行政の事例のように実際にはひとつの政治的な力学の中に」留まり続けたことであり、「「被爆体験」から学ぶのは「平和の大切さ」や「戦争や核兵器の愚かさ」といった抽象的な理念にとどまり、そこから具体的に何をどうすべきなのかを自ら考えていくことはしなくなる」ことである(p264)

 

 

 

 

2018年11月に読んだ本

 

 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

 

  

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

 

 

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

 

 

本書の、そして著者の始点となる疑問、それは〈私〉である。

 

「(過去や未来を含めて)たくさんの意識のある生き物が存在するのに、なぜ現実にはこの一つだけしか感じられないのか?(なぜ一つだけは現実に感じられるやつが存在しているのか?)」(第1章)

 

私は「私」という概念を使って自己を指し示す。またあなたも「私」という概念を使ってあなた自身を指し示している。この同じ「私」を使う(発話する)前提として必要とされるのは、またその「私」という概念を下支えする(あなたと混同することのないための)根拠は、〈私〉である。この〈私〉は本書ではこう表現されている。

 

現在の世界には現実に一人だけ他人たちとはまったく違う種類の人間が存在している。現実に見えたり聞こえたり、痛かったり痒かったり、何かを覚えていたり何かを欲したりしている人間である。人類史は相当に長いが、つい最近まで、そんな人間はいなかったし、もう少ししたらまたいなくなるであろう。(第2章)

 

そう、〈私〉とは事実である。事実として現在に存在してしまっているこの〈私〉という、代替不可能で、他との比較を絶したこの「一つ」。そのことに著者は「実存」という概念を当てる。ここでいう実存とは「現に今存在してしまっていること」を意味し、対立的に使われる「本質」(こちらは可能的な世界において見いだせる意味内容)に先立つ〈私〉の存在の容態として使用される。

 

 

 

意味がない無意味

意味がない無意味

 

 

アンチ・エビデンスー九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い


「非定型的な判断を限りなく排除〜これは、反−判断である」(p165,166)
本来は手段であった自然科学的なエビデンシャリズムがあらゆる領域で目的以上に目的的に欲望される現代を批判する。

純粋理性批判』「超越論的判断力一般について」(B171~175)においてカントは、内容を捨象し形式のみを重視する一般論理学は「判断力にとってのいかなる準則をも全然含んでおらず」、一般論理学の規則に執着する知識人は「容易に過失をおかす」と批判している。

絶えずエビデンスを提出する(という一般論理学が蔓延した)現代は、知識人だけに留まらないあらゆる人々が「容易に過失をおか」しうる状況であり、一家(=独身=一人)に一台「あんよ車」が必要な社会とも言えるかもしれない。

 

力の放課後ープロレス試論

 

プロレスが孕む「贅沢」。

多くの競技、資本家のふるまい、人生プランにおいて効率性が重視される現代、プロレスはそんな私達が忘れかけている「結果のすべてではなさ」を思い出させてくれる。

非効率的な振る舞いをすることの贅沢さは、試合に勝つということや「結果=利益が全てであるかのように恫喝するリアリティから我々の「日常」を解き放ってくれる、それがすべてではない、という夢なのである」。

 

勝利は単独者にのみ現れる。レースに勝利するのも、新記録を打ち立てるのも、ビジネスで勝ち上がるのも、多くの敗者の上に立つ単独者にのみ成り立っている。

そうではない自分、そうならなかったかもしれない可能的な自己。子供の時、ふと見つけた高い壁を乗り越え未知の庭先へとジャンプする、「ぎりぎりの自己破壊を生き延びること」。

 

向こう側の秘密の庭にたやすく降り立った彼こそが、プロレスラーに他ならない(それは僕のありえたかもしれない姿、分身だ)。そして秘密の庭、それは力の奔流に流されるがままになるという自己破壊のプロセスを首尾よく通過して、生きて着地できた場所である。 (p286)

 

プロレスのリングとは、ひとつの秘密の庭から別の庭へと飛び越え続けることが起こっているような場所だ。つまりそこは、(合理的根拠のない無邪気な自信に支えられた)自己破壊の多彩なヴァリエーションを花咲かせる舞台なのである。(同上)

 

 

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 

 

引き裂かれた大地:中東に生きる六人の物語

引き裂かれた大地:中東に生きる六人の物語

 

 

 

クルアーン入門

クルアーン入門

 

 

 クルアーンを、ムスリムの世界観を知るための一テクストとしてではなく、イスラーム教の生きた宗教体系の中心に位置するものとして認識して初めて、今なお、二〇億のムスリムたちがクルアーンに書かれた一字一句を真実と信じ、その教えを社会に実現しようとしていることの理由が見えてくるだろう。(p 34)

 

 

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)

 

 

漠然と平均律は昔から(それこそピュタゴラスの時代から)あるものばかりと思っていたので、種々多様な歴史的試行錯誤(音楽的&数学的)を経て現在の平均律が(そして亜種としての平均律も)生み出されたことを知ることができてとても良かった。

 

個人的には数学的素養のなさが本書の一部の計算パートを楽しめない要因となってしまっている点はやっぱり反省します。

 

 

 

エコラリアス

エコラリアス

 

 

 

 

イブン・タイミーヤ政治論集

イブン・タイミーヤ政治論集

 

 

 

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

 

本書から読み取れる興味深い仮説は、身体感覚の変調や特異状態が引き起こす様々な症状があり、それらは非常に多様な原因(変調や特異状態)と多様な結果(様々な症状)をとるということ。

そして「身体感覚の変調や特異状態」は先天的な場合もあれば後天的な場合もあり、

改善も悪化もありうるという、マラブー的「可塑性」が想起される。

 

タイトルや表紙の残念感は置いておいて、読みやすくかつ多くの問題提起が詰まっている。

「私はすでに死んでいる ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳」:アニル・アナンサスワーミー - einApfelのブログ

 

 

 

「私はすでに死んでいる ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳」:アニル・アナンサスワーミー

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

 コタール症候群、認知症、身体完全同一性障害(BIID)、統合失調症離人症自閉症スペクトラム障害、自己像幻視、恍惚てんかんといった疾病/障害/症状を脳神経学や精神医学、そして哲学的に考察したエッセイ調な翻訳書。あまりにもお粗末な超訳的タイトルや章立てに目をつぶれば、著者による多岐に渡る取材の成果と思考の枝葉が盛り込まれている。

 

本書で取り上げられる様々な症状に共通する要素をあえて取り出せば、それは「自己の喪失」となるだろう。

私たちは生きていくうえで多様な

・内的感覚

・外的感覚

・意識や思考

の各断片が発生する。

 

それらは

・自己の内的感覚によって

・自己の外的感覚によって

・自己の意識や思考によって

知覚され認識された経験として、その(知覚主体としての)原因の帰属先を自己であると理解し納得している。

 

もしこれらの経験の原因の帰属先を自己であると判断できなければどうなるか?

 

・自己の内的感覚では実感できないこの手足を自己の手足と認識することはできず

・自己の外的感覚として捉えられない視覚情報や聴覚情報は他者由来であり

・自己の意識や思考がつかみとれないゆえに他人の感情を推測できない

といったことが起こると予測されるのである。

 

もちろん上記のまとめは大雑把であり、この書の表面上をすくい取っただけにすぎない。

 

以下3つの統合失調症に関する抜き書き↓

研究チームは、〜実験を行なった。すると左手をさわるのが自分でも他人でも、くすぐったいような気持ちよさを強烈に感じることがわかった。つまり統合失調症患者は、自分で自分をくすぐることができるのだ。(p144)

 

統合失調症患者は自己主体感覚が持ちにくく、それを補うために自己主体判断に頼ろうとする。後者のよりどころは、視覚フィードバックなどの外的要因なので、自分自身のことなのに、まるで外から経験したような感覚になるのだ。(p146)

 

決めたのは自分ではないのだから、責任は別の誰かにあるはず。「意味を知りたいというのは自然な探究心でしょう。わが身に起こったことの説明がほしいと誰しも思うはず。だから敵がいるとか、陰謀だとかいったことになるのです。」それが妄想にとりつかれるということだ。(p147)

 

以下長めの自閉症に関する抜き書き↓

まだ予備的証拠の段階ではあるが、自閉症では他者の心の予測だけではなく、自らの身体や身体状態の感知もできない可能性がある。行動上の問題、ひいては精神的な問題と思われてきたことが、実は身体自己意識の混乱に端を発しているかもしれないのだ。自閉症児が自分の身体をきちんと感じて、明確な身体知覚を形成できるようになれば、行動面にも変化が起きるかもしれない。

このように、脳、身体、精神はつながったひとつの連続体だという考えかたは、ほかの病気でも役に立つ。たとえば自分の身体や情動が自分のものに思えない離人症性障害では、テニスやジャズドラムなどで身体に注意を持続させているあいだには、症状が軽減される。離人症のような「精神面」の問題が、身体とつながっている証拠だ。(p313)

 

2018年10月に読んだ本

 

 

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版

 

 

著者のちょっとした体験や思いつきから生まれる数々の実験が示す「不合理な」ふるまいをする人々。

「なぜ我々は”無料”に弱いのか」

「なぜプレゼントのお返しが現金ではいけないのか」

「なぜ人は自分の感情を批判するのでなく後押しするために理性を使うのか。」

行動経済学がどのような視点で疑問を提起し、検証されたデータを応用するのか、そんな一連の思考の流れを各章ごとに展開していて楽しく読める。

 

経済学は、人がどのように行動すべきかではなく、実際にどのように行動するかにもとづいているほうがはるかに理にかなっているのではないだろうか。「はじめに」で述べたように、この素朴な考えが行動経済学の基礎になっている。人がいつも合理的に行動するわけではなく、誤った決断をすることも多いという(かなり直観的な)考えに着目した、新しい学問分野だ。(P406) 

 

 

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

 

 

フィルターバブルの中に入るというのは、自分が目にする選択肢をその会社に選ばせることを意味する。運命の手綱を握っているつもりが、パーソナライゼーションによっていつのまにか、過去のクリックが今後目にするものを決める情報の決定論のような状況になってしまい、ただただ、過去と同じことをくり返すだけになってしまう。(p32)

 

他人の視点から物事を見られなければ民主主義は成立しないというのに、我々は泡(バブル)に囲まれ、自分の周囲しか見えなくなりつつある。事実が共有されなければ民主主義は成立しないというのに、異なる平行世界が一人ひとりに提示されるようになりつつある。(p18)

 

 

 

出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉

出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉

 

 

90年代後半に執筆された本書の第2章「近代出版流通システムの誕生・成長・衰退」において、79年刊行の『出版流通改善試論』という著作が引用されている。

 

戦後三十年を経た出版業界は法定再販という政府の保護のもとに、大出版社はマスプロ・マスセールの類似企画を追い求め、中小出版社の少部数書籍はその流れの中に埋没し、取次はシェアの拡大に明け暮れ、書店はベストセラー商品の獲得に奔走し、読者は欲しい本がないと嘆き、総体として冒険の欠落した時代であった。(p91)

 

80年代の郊外型大型書店の出店の成功がマスプロ・マスセール傾向を一層加速させ、70年代から既に制度疲労を起こしつつあった出版業界を潤わせ、大型店の出店における規制緩和とバブル的投資を呼び込むことになる。

90年代に入ると、「書店バブルの崩壊が始まり時限再販の導入が起きている。つまり二〇年前の状況と似ているし、先送りにしてきたツケが全部回ってきている」(p90)と指摘されるほど問題が回帰してくる。

 

2018年現在の視点から見ると、40年前に指摘され、20年前にその指摘の正しさがより具体的に露見していると認識され、それ以来一切の改善改革なく20年が経過しているということだろう。

 

 

うたの風景―古典と現在

うたの風景―古典と現在

 

 

私の現代詩入門―むずかしくない詩の話 (詩の森文庫 (104))

私の現代詩入門―むずかしくない詩の話 (詩の森文庫 (104))

 

 

 

俳句短歌詩歌系を勉強中。

 

 

ノモレ

ノモレ

 

 知人に勧められて読んでみた。

 

南米、ペルーの熱帯雨林、ここには教育を受けスペイン語を理解し都市部の物資を日々の生活に取り入れる先住民と、一切の外界とコミュニケーションを取らない先住民(「イゾラド」と呼ばれている)が暮らしている。

双方の居住地区の近さから発生する予期せぬ接触が引き起こす事件・事故、現場を知らない中央政府の「先住民保護法」によって実施される無内容な対応策、都市で教育を受けスペイン語を話すイネ族のロメウはまさに多くの「はざま」に立たされることになる。

またイネ族の言い伝えに、100年ほど前に生き別れたイネ族の同士の子孫が森で生き延びておりその仲間(ノモレ)を探しだしたい、というものがある。

 

ロメウは幾度かの接触から、最近事件を引き起こした「イゾラド」達が実はイネ族と同じ言語を持つ「ノモレ」、100年前に生き別れた仲間の子孫ではないか、との思いをしだいに強くしていく。

 

ーーーーーーーーーー

この本はノンフィクションでありながら、著者の視点を(ほとんど)入れない物語風の文体になっている。ロメウを基本視点としながら、「ノモレ」や過去のイネ族等々と語り手の移り変わりも見せる。それは唐突に、時に一つのパラグラフで変化してしまうこともあり、流れが途切れるほどではないにしても、丁寧さを犠牲にした勢い重視の姿勢と取られかねない。内容が魅力的であるだけに、全体の構成をより適切に提示できる編集がなされなかったのが悔やまれる。

 

 

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

 

 

「ただ一人の国民兵士の命の保護が、数え切れない数の外国人市民を見殺しにすることを正当化する」、それが「「倫理」という名のもとでなされているのである」。(pp156−157)

 

 ドローン・テクノロジーが孕む/付随する意味・情報・未来を多面的に考察する一つの「試論」として、とっても示唆的。

 

明日の前に

明日の前に

 

 「生前説」としてとらえられがちなカントの超越論的観念論を、現代的な生物学的知見を生かした「後成説」的観点から解釈しなおすことで現代におけるカント哲学の有用さをまさしく「批判 critik」する、未来を見据えた論考。

 

 

AI原論 神の支配と人間の自由 (講談社選書メチエ)

AI原論 神の支配と人間の自由 (講談社選書メチエ)

 

読みやすい文体でとても啓蒙的な一書。以下はメモ。

・生命体一般

    →自律性、責任が求められる

 

・人工物(非生命体)

    →他律性、責任が求められない

 

・自律しているように見える第3次AI(深層学習+シンギュラリティ仮説の適用)

    →擬似的自律性、将来的に責任問題が顕在化

 

第3次AIの特徴:①深層学習と②シンギュラリティ仮説

 ①→思弁的実在論メイヤスーにおける「潜勢力」に対応、過去しか見ない

本来生物は「潜在性」を持ち未来を見据える

②→ユダヤキリスト教一神教という宗教的背景で芽生えたトランスヒューマニズムが仮説の曖昧さを補完している

 

 

 

「ドローンの哲学 遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争」 序章と第1章のメモ

 

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

 

 

序文

 

「操縦士なしの航空機システムの真の利点は、脆弱性を発揮することなく、力を発揮することにある」。「力を発揮する」とは、ここではとりわけ軍事力が国境を超えて展開するという意味で理解すべきだ。

 

ドローンの特殊性は、〜人が指をかけている引き金と、弾丸が飛び出る大砲とのあいだに、いまや何千キロメートルもの距離が挿入されることになる。武器と標的のあいだの射程の距離に、オペレーターと武器のあいだの遠隔指令の距離が付け加わるのである。

 

「未確認暴力物体」としてのドローンが引き起こす相互関係の消失という事態。「(地理学的・存在論的カテゴリーとしての)領域や場所、(倫理的カテゴリーとしての)美徳や勇敢さ、(戦略的であると同時に法的・政治的カテゴリーとしての)戦争ないし紛争といったカテゴリー」に「激しい動揺がもたらされることになる」

 

ーーーーーーーーーー


第1章 技術と戦術

 

①過酷な環境での方法論

 

「空間は過酷な区域と安全な区域の二つに分割される」。遠隔操作の技術によって「生きた身体とそれを操作する身体は分離」することができ、後者の機械化が促進される。

今現実世界で起きていることは、当初予測されていた「マシン同士の試合」、「兵士なき戦争、犠牲なき衝突〜というユートピア」とは全く別の様相を呈している。「危険な物質」と判断された人物が「安全区域」場に設置されたスクリーンに映し出され、遠隔操作されたマシンにより殺害される。「非対称戦争は徹底化され、一方的な戦争になる。というのも、もちろん人はそこであいかわらず死ぬのだが、ただ一方の側だけだからだ」。

 

②〈捕食者〉の系譜学

 

第二次世界大戦期→軍事訓練の標的としてのドローン
・ペトナム戦争→偵察用ドローン
・第4時中東戦争→地対空ミサイルへの囮としてのドローン
・21世紀→対戦車用ミサイルを装備したドローン


③人間狩り(マンハント)の理論的原理

 

「対面し合う二人の戦闘員」というパラダイムから「前進するハンターと、逃亡し身を隠す獲物」というパラダイムへ。
探し出されるべきは、もはや「社会的ネットワークのなかに挿入された結節点ないし「ノード」」となり、収集された情報から予測される結果のみである。

 

というのも、軍事化されたマンハントの戦略は、本質的に予防的だからだ。〜潜在的なアクターを早めに排除することによって、脅威が忽然と出現するのを予防することにある。

 

④監視することと壊滅させること

 

ドローンのイノベーションの原則

(1)持続的な視線ないし恒常的な監視の原理
(2)視野の全体化ないし総覧の原理
(3)全体的アーカイブ化ないし生活全体の映像化の原理
(4)データ融合の原理
(5)生活形態のパターン化の原理
(6)異常の探知および予防的予期の原理

 

⑤生活パターンの分析

 

「識別特徴攻撃」→個人の身元情報が特定できない場合でも、生活パターン(どのような場所に行きどのような人と会うのか等々)によって攻撃対象に認定される

 

しかし、この問題は〜蓋然的な指標を変換して構築された映像を、合法的なターゲットという確かな地位へとしかるべく変換する際にどのような能力が要求されるのか、という点にある

 

二〇一一年三月一七日、パキスタンのダッタ・ケルに集まった人々の集団が、「彼らの行動はアルカイダに関連した戦闘員の行動様式に対応している」という根拠で、アメリカの攻撃によって殲滅させられた。彼らの集まり方が、テロリストの行動の疑いがあるものとしてあらかじめ規定されたマトリックスに対応していたのだ。しかし、空から観察されていたこの集まりは、実際には、地域の共同体で諍いが起きたときにそれを解決するために召集されるジルガという伝統的な集まりであった。この攻撃で命を失った民間人の数は一九から三〇人と推定されている

 

⑥キル・ボックス

 

「キル・ボックス」、それは特定の地域のとある空間上に設定された攻撃対象領域である。スクリーン上で「開いたり、動作したり、凝固したり、閉じたり」するキル・ボックスを観察しながら、「紛争地域は、柔軟かつ官僚主義的な様態で作動する多数の一時的なキル・ボックスへと細分化された空間のようになる」。

 

①軍事的紛争区域は、小型化可能な「キル・ボックス」へと細分化され、理想的には、獲物としての敵の身体だけをめざして縮減されるー身体が戦場のようになる。〜②しかし今度は、このような可動式の微小空間は、〜どこにあったとしても標的にすることができる〜世界が狩猟場となる。これがグローバル化ないし均質化の原理である

 

それにより、元来「国際法」や「戦時法」に必要とされていた「戦闘領域・地域」という概念の無意味化である。

 

もしかすると、法の根本的な目論見は、暴力の合法的な行使を地理的に限定するために、暴力を囲い込むことにあった、と想起すべきときなのかもしれない

 

⑦空からの対反乱作戦

 

戦闘を優位に進めるために目指されてきたのは、「敵対する戦闘員の意志それ自体を無化する」ことである。だがその目的のもと実施された空爆という攻撃方法で明らかになったのは、「「そうした攻撃は、爆撃を受けた地域の住民たちを完全に激昂した状態で家から追い出す。彼らはそうした攻撃を「卑怯」〜と考え、〜近隣の氏族や部族のもとへと散らばっていく」ことであった。

20世紀後半から現在へと途切れることなく続くこのような負の連鎖に対しドローン推進者は、「古くからの悪癖を免れることに成功したと主張している」。

 

ドローンは高度なテクノロジーに基づく道具なのだ。視線の持続性と標的化の精確さという二重の革命によって〜古くからの反論は歴史のゴミ箱のなかに放り込まれることになったのだ。

 

かつての空からの兵力の戦術的な限界は、それが「敵の徴兵を相殺できるほど早く反乱者を殺害ないし除去することができない」点にあった。〜今日ついに、速度競争に勝利し、個々人の徴兵と少なくとも同じくらい素早く彼らを除去できる能力を手に入れているかもしれないということだ。

 

新たに徴兵された新兵が現れるやいなや彼らを定期的に無力化することがいつでも可能となる〜。定期的な剪定を新たに始めればよいのだ。

 

ドローンを「反テロリズム」の特権的な武器だとする賛同者たち〜が明記し忘れているのは、それは同時に勝利することもない戦争だということだ。そこに描かれるシナリオは、出口が不可能になった、際限のない暴力というものだ。


脆弱性ヴァルネラビリティ

 

・ドローンは飛び回ることのできる空間を必要とし、安定した電波制御のもとで正しく動作する。であるならばドローンの脆弱性とは、それらの要素を妨害できる環境・技術によって実現可能となる。

・「アマチュアのドローン」という問題