「「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち」 : 石井 光太

 

「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち

「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち

 

 

この本には3件の幼児虐待及び殺害事件のあらましが著者の取材のもと描かれている。「私たちの常識」からはかけ離れたように見える3つの家族それぞれの夫婦の生い立ちや実家風景、そして子育ての記録。具体的な描写が本書のいたるところに著されている。

そのドキュメンタリー的な面ではない別の側面からあえて読もうとすれば、この本は文学的であり、哲学的「他者」の要素を含んでいるように思われる。

 

そもそも、この本を読み、ふつふつと沸き起こってくる違和感のもととなる「私たちの常識」とは一体なんなのだろう。3つの家族に共感することが難しい(と思われる)根拠となっている「私たちの常識」を、果たして私たちははっきりと行動し実現することができるのだろうか?理解不能な人たちというレッテルを貼り付けて排除することが本当にできるのだろうか?

私たちはつい「私たちの常識」に照らし合わせて、本書の中にどこか共感できるところはないのか、救いの光がないものかと無意識のうちに探し求めてしまう。辛く苦しい生を送った嬰児たちに感情移入し、最悪の最後を遂げたという事実に暗澹たる読後感を覚えるかもしれない。

しかしその感情は「私たちの常識」的な発想に基づいたものではないのか。3つの家庭は私たちと常識を共有しない他者たちであり、その他者たちにとっての救いや希望や温もりといったものは、別のかたちであったのではないか。そう筆者は煩悶する。

 

 ところが、見せられた三十枚の写真はことごとく予想を裏切るものだった。家族が仲睦まじく寄り添い、Vサインをしたり、笑顔で頬をくっつけたりしているものばかりだった。

〜 写真の中には、玲空斗君が顔を腫らして包帯を巻いている姿もあったし、犬用の首輪につながれているらしい玲花ちゃんの写真もあった。だが、そんな二人ですら、他のきょうだいと同じようにカメラの前で笑顔を浮かべ、忍や朋美になついているのだ。そして夫婦も、裁判の時とは別人のような明るく幸せそうな表情で、子供たちと肩を組んだりポーズをとったりしていた。(pp238−239)

 

 私は写真や手紙を見て、それまで抱いていた虐待家庭のイメージが音を立てて崩れるのを感じた。

〜 取材をここまで進めたうえでこれらを見ると、二人は二人なりに家族を愛していたと認めざるをえなくなった。その方法も感覚も根本からまちがってはいたが、夫婦なりに精いっぱい、子供たちの笑い声が絶えない温かな家庭を築き上げようとしていたのだ。(p240)

 

「その方法も感覚も根本からまちがってはいた」と、私たちは判断せざるをえない。そう判断する「私たちの常識」があるからこそ、彼らの行動を理解することができない。

 

それに気づいた時、わが子を愛しみながら、家庭を崩壊させることしかできない親の悲しみを感じずにはいられなかった。(p240)

 

 悲劇と、意味付けしてしまう私たちの評価は果たして適切なのだろうか。想像をすることしかできないけれども、幸せは確かにそこにあった、そう写真は物語っている。

 

哲学的な意味での「他者」は現実に存在する。その人たちは現代世界に強く蔓延する数量的エビデンスや多量のデータ解析からははじかれてしまう「他者」たちだ。そこにアクセスし、光を当てられるのは、やはり文学であり言葉なのだろう。数値化/データ化から常にこぼれおちてしまう人たちを掬いあげる方法は、ずっと昔からあったのだから。